ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

芸術的な雲の造形

 本日は、とても素敵な雲を見つけました。

夕暮れの積乱雲

 雲の底面は、日没により暗くなっていますが、上層部はまだ日が当たっていることにより、このような感じになりました。積乱雲ですので、この雲の下は、おそらく…

 あまり大きな雲ではなかったのか、雲の下の方がピカピカしている感じはしていませんでした。大きくないと言っても上空はかなり雲が上昇しているようで、雲のてっぺんは平坦になっています。

 理由は、調べていないので分かりませんが、一万メートル以上には積乱雲は高くなれないようなので、このように天井は横に広がって行くみたいです。そういう点では、大きくないと言っても厚みは結構なものですね。

 

 以前から雲の写真を撮ると宣言していましたが、実際は、なかなか出来ませんね。

 しかし、本日は素敵な雲をお見せできました。

 

 

知りたがりの脳ーーー強みと弱みーーー3

 本日は、知りたがりの脳の弱みについて触れていこうと思います。

 強みでは、知ることで、次の予測が立てられるようになり、さらに知見を重ねることにより、解決方法を見出すことでした。

 

 実は、知るという事ができれば、脳はとても安心できるのですが、知ることができない場合、脳は、この夜の終わりのような不安に陥ってしまう傾向が強く認められます。

 たとえのお話をすれば、学会などで出張に出かけたとき、その学会の近辺で、神社巡りを行ったとします。神社は、歩きではいけなかったため、タクシーを活用し、山奥に出かけ、無事に参拝を終えましたが、その終えた頃くらいから、突然の大雨が降り出し…ここまでのお話であれば、もしかしたら筒前の気象変化は、神様からのメッセージかもしれない…などという話題になるのですが、それだけでは収まらず、神社の山の中で、目の前の橋が崩れてしまい、どうしようもならない状態となりました。スマホを開くとなんと圏外。さてどうしましょう?

 これから先何が起こるだろうか、何も分からないし、知ることもできないのです。それに現在いる場所について、タクシーで運ばれてきただけなので、道順とかも分かりません。そしてスマホが圏外であるため、マップも開けません。

 知らないだらけで、何をしていいのか動か分からず、多くの方は、フリーズしてしまうことでしょう。そして、不安に駆られて無目的に、何か解決方法がないかどうか、うろうろと放浪してしまうことになるでしょう。

 結果として、橋が崩れたことにより正規の道で帰れないことにより、正規の道を外れ、本物の遭難となる…なんて言うことがあり、冷静さを欠いた結果として悲惨なこととなる場合もあります。

 

 知りたがりの脳に対しての一番の弱点は、知ることが出来ない事なのです。そのことにより、脳はパニックを起こし、冷静さを失ってしまう訳なのです。

 

 これは、現代のようにあらゆる知見が積み重なった中においても起こりうることとしてあります。これの代表的なものが将来に対する不安であったり、現時点で答えが出ない事柄に対する不安であったりするでしょう。

 もし、現時点で、3年後に隕石が墜落してくるなどという情報が流れたとしたらどうでしょう?しかも、それがどこにも報道されていない情報です。あたふたしてどうしようもならなくなるでしょう。また、ある程度情報があったとしても、人類がとれる対策方法が全く見出されていなかったら、人類全体がパニックになることでしょう。

 

 この知りたがりの脳における弱みは、不安や悩みに直面したときに、もろに脳にストレスを与えてしまう現象となります。この現象に対処するための方法…これがとても難しいと言えます。

 現代社会、色々な人付き合いなどでもそうですが、知ることのできない先の見えない不安に駆られることも数多くあるでしょう。そんなときにどのように過ごしたらいいのか…。

 

 知りたがりの脳に対して、知らない事への美徳を教え込むことが問題の解決になると言われています。このテーマについては、とても難しい事柄ですが、いずれ触れてみようと思います。

 

本日で知りたがりの脳のシリーズ3回で終わりにしたいと思います。

 

 

知りたがりの脳ーーー強みと弱みーーー2

 本日は知りたがりの脳の強みについて、考えてみたいと思います。

 知りたがりの脳の強みというものは、とてもわかりやすい形で、日々の生活の中では、繰り広げられています。

 ごまウシの場合で例えを出してみましょう。朝通勤をするときに、必ずごまウシは、Weather Newsを確認しています。よく登場するのはそういった理由です。

weathernews.jp

 今日は、天気のお話ではありませんが、朝にチェックをするという知りたがり脳が求めているのは、もちろん、道中に雨に遭遇するかどうかの情報を知ることにあります。この結果として本日は傘を持って出かけるかどうかの判断をするわけです。脳がその情報を知ることにより、出発前にいくら晴天で心地よい空が広がっていても、夕方には雨が降るとなれば、晴天であっても傘を持ち出すことになり、結果として、帰りにぬれて変える子を避けることができます。

 

 また、知っていることで、対応する事柄速やかに終わらせることができるようになります。これはまさに、今の医療と行ってもいいでしょうか。たくさんの情報を頭の中に入れることにより、外来などにいらっしゃった患者さんの状態を観察し、問題を早くに見つけることで、その情報の中から治療法を見出し、問題の解決に繋げていくわけです。

 

 知ることにより、その後の先の見通しが学べるようになり、またそれを重ね合わせていくことによりさらに発展的な先々の方向性を明瞭に立てられるようになる。これが現代の医療であり、さらに言えば、人類の便利な文明社会の根本と言ってよいことでしょう。

 ごまウシも含め、日々の生活がとても心地よく、快適に過ごせているのは、まさに、人類が昔から物事を知り、学び、そして、理論として展開し、さらに知見を重ねて組み立てられた知識の上で成り立つ理論の結果として、作り上げられた技術が下支えとなっているわけです。

 

 これこそが知りたがりの脳の強みと言えるでしょう。

 

 さて、この知りたがりの脳の強みを見てしまえば、実は、生きるための技術でもあり、弱みなんて言うものが存在しないように感じられるかもしれません。しかし、この万能とも思える強みの背景には、実は、弱みというものが存在しているわけです。この弱みこそ、現代社会におけるみなさんが抱く苦しみのひとつでもあると言えます。

 

 次に弱みについて触れていこうと思います。

 

 

知りたがりの脳ーーー強みと弱みーーー1

 人間の脳というものは、知りたがりの塊であると言えます。もちろんこれは人間に限った話ではありませんが、学習することを本能的に求めているのが脳と言えます。考えてみれば当たり前のことではあります。

 生き物として生きていくためには、既に先天的に身に付けられた技術だけでは、生きていられないため、生き物は、出会った出来事に対して記憶し、その記憶から、関連性を見出し、そして理解をすることにより、現象に対しての次に起こりうることを推測し行動することができます。

 例えば、電流の流れている床を通ったらたどり着ける餌場と、電流を回避することのできる餌場とを用意して、それぞれのルートの色合いを変えてみて、動物に環境を提供した場合、電撃を受けて、ショックを受けた動物は、できるだけショックを避けようと考えるようになりますが、餌場には生きていくためには必要なため、恐る恐る出かけていくわけです。そして、餌場に安全にたどり着けたときに、なぜたどり着けたか、知ろうとし、経験を学び、学習した上で、ルートの特徴を理解するようになります。

 このようにして、生きていくためには、状況を知っていく必要があるため、知りたがる脳というのは、生きるための一つの技術となります。

 

 人類の文明というものは、まさに、この知りたがりの脳の究極と言えるでしょう。例えば、エジプトのナイル川の氾濫について、古代人は、突然やってくる洪水で多くの人を亡くしている一方で川沿いの肥沃な土地での食料などの獲得にどうしても川のそばで生活をするようになります。どのタイミングで洪水が起こるのだろう…この疑問を知りたがるようになり、その関連性を周りを必死に観察することで、学び、身に付けてきたのが天文学と言われています。太陽の日の出、日没の位置、そして、星空の星の並び方の関連性…これらの関連性で、洪水が起こるタイミングの時には、どの位置から日が昇って没するのか、そして、洪水が起こり出す時期の星図はどうなのかを発見することで、洪水が起こるかもしれないタイミングを予見し、回避策をとることができるようになります。

 

 知りたがりの脳は、まさに、このようにして、様々な情報を観察し、関連性を知ることで、新しい知見を得て、その関連性から、新しい、技術や生きやすくするための技術を生み出し、そして、さらに発展し…現代文明へと発展したと言えます。

 現在では、さらなる、地球を越えた、人類がたどり着けないような宇宙の深淵部に対する理論なども探求し知ることで、地球から出て他の星で生活することまで人類は探求し、生きやすさを探し求めているのかもしれません。

 

 この知りたがりの脳は、当然ながら強みもあるのですが、逆に弱みというものがあったりします。それについて、さらに触れていこうと思います。

 

 

社会的入院

 みなさんは、社会的入院という言葉を耳にしたことはありますか?

 昔は、どこの病院でもこの社会的入院ということが日常的にあったのですが、医療情勢の変化とともにこの社会的入院は激減し、現在では、精神科病院がかろうじて受け入れているくらいでしょうか…。療養病棟と言われる病棟も多少受け入れていますが、ほとんど姿を消しております。

 

 社会的入院は、意味合いとしては、社会的な理由での入院です…そのままじゃないかと言われそうですが、まさに、これが意味合いであり、入院なのに、身体的な理由でないというところがポイントです。

 

 社会的というところは、家庭環境という言葉に置き換えることが出来ます。精神科患者の場合、日常生活において、精神病症状や気分状態から、多くの時間目が話せない状況にある場合、サポーターである家族が疲弊してしまうことがあります。その場合に、患者はさほど病状に変動があったりどうしても入院が必要とまで状態が悪いわけではないのですが、家族の休息などを目的として、患者本人を入院に導いてしまうものです。

 精神科患者に限らず、介護が必要な高齢者も多くの場合そのような入院が存在しました。その社会的入院で、環境が改善すれば退院となるのですが、それが改善せずに年単位で入院してしまうなんて言うこともあったりします。それこそ20年くらい前の老人病院には、そのような方がたくさんおられたと思います。精神科病院にはまだ現在も数十年の入院を続けている方もおられますが、だいぶ減少しています。

 

 そして、劇的に減少したのは介護保健制度が導入されてからです。高齢者の社会的入院は介護保健を活用して、漏示保険施設や、小規模多機能施設での一時預かりなどから、最終的には昔から存在する老人ホームのような施設へ移行していくという流れが主流となり、社会的入院では、医療的に採算がとれないような時代になってきました。

 

 しかし、社会的入院は現在も残っております。社会的入院の必要性がなくなったわけではないのです。介護サービスがあるのに、なぜ医療で社会的な受け入れをしているかと言えば、これは、アクセスが医療の方がよっぽど簡単であるというところにあります。

 入院は、緊急のものであるため、受診したらその日に入院が実現する場合が多くあり、介護サービスの場合、緊急入所と言った対応は、よっぽどの利用経験があったり、既に介護認定などがすんでいたりと言った特別な理由がなければ出来ません。入院は特別な準備はいりません。必要があって医師が認めれば入院が実現します。

 そのため、速やかに対応が必要な場合には社会的入院をとりあえず受け入れたりすることがあります。

 

 社会的入院が過去の言葉のようになりつつある中でも、未だに存在するのは、このような素早い動きがまだまだ介護サービスや障害者支援における入所サービスにおいては順応できていない実情があります。この緊急の入所システムが、今後のサービスの展開の中で実現できるようになれば、おそらく社会的入院はさらに激減し、適切な医療サービスにつながるのではないかと思います。

 ただし、おそらく、緊急入所は、病院の入院と異なり、おそらく、コストは結構かかるのではないかな…と思ったりしますが…

 

 社会的入院が必要のない時代はいずれにしても、いつやってくるか…まだまだ課題は多いように感じますね。

 

 

頑張ったら頑張った分返ってくる

 ごまウシの活動に限ったお話ではありませんが、誰かのために、あるいは、地域のために、もちろん、法人経由ではありますが、協力したり、応援したりすると、その時は、何もなくても、後の地下ならず、どういった形であれ、返ってきます。

 

 ごまウシの職場以外での活動については、現在のところ、地域での講演活動や座談会と言った活動、医師会の理事としての活動として監査などのお手伝いなどをさせてもらったりしています。一つ一つは決して大きなものではありませんし、ごまウシとしても、それほど大きな協力をしてきたつもりはないのですが、一つ一つで、困った方への力添えを何とかしようと取り組んできています。

 

 地域活動は、どうでしょう、8年ちょっと過ぎるくらいの活動になりますが、最初の2年くらいはもちろん何もなかったのですが、3年目くらいから、ごまウシを名指しで相談をしてこられる方が増えてきました。名指しでご相談を頂くと、やはり、なんとか頑張ろうと思うようになるので、一生懸命、答えるようになります。

 その一生懸命やった分だけ、さらにその分の答えがしばらくして返ってきます。

 医師会の活動についても、最初については、ただ、いるだけ…と言った存在でしたが、地道な協力をしたりしてお手伝いをしていくうちに、講演とかのお誘いがあったり、ダイレクトの相談があったりと、徐々に、お返しが返ってくるようになりました。

 

 頑張ったら頑張った分返ってくるのはとても幸せな気持ちになります。みなが、慕ってくれるという気持ちになり、多くの人に囲まれて、地域で活動できていることを実感します。そして逆に困ったときには、多くの肩が力になってもらえるようになりました。

 

 協力をしてもらえるときには、多くの面で心身になってもらえるようになりました。

 一般的には相談をした場合には、その方の出来る範囲で、事務的なサポートが多く、時にはそれすらしてもらえないこともあります。ところが、人助けや協力などをしていくうちに、関係が築かれていきますと、事務的なことを越えてご支援を頂けるようになります。

 ギブアンドテイクというのはまさにこのことだなと思います。

 

 しかし、このフィードバックは、ごまウシの最近の活動の中では、宝物のように貴重なものとなっています。確かに、忙しくもなるのですが、それだけのやりがい、そして、生き甲斐につながります。

 辛いことがあっても、支援者がいるから、頑張れるような気持ちになります。そして、辛いときには、時に悟ってもらって、そっと温かい言葉を投げかけてもらえることがあります。もちろん、ごまウシもそっと気になる方に声かけをするようにしたりしています。

 このような、絆は後々の宝物となるため、頑張る場所をさらに広げていけたらと思うことが多くあります。

 

 困った方は、ぜひ、いらしてください…などと言いたくなりますが…

 どこまでごまウシが支援できるかは分かりませんが、頑張って考えて、力添えが出来ればなどと思ったりします…。

 

 みなさんも、頑張った分、必ず、後でフィードバックがありますので、人のため、世の中のために、楽しく協力をしてみることをオススメ致します。

 …なかなか、言いお話をしてしまったけど…ちょっとお駄賃も欲しいかな…。

 

 

神々のお宅巡りVol.82

 本日は、日中のお宅巡りではなく、仕事帰りのお宅巡りをある意味で言えば、強行しました。もちろん、一度行ったことのある場所ですので、既に、何度か写真を載せているところではありますので、新しい話題というものはありませんが、やはり、いつお邪魔しても、心洗われる気持ちになります。

縣主神社

 つい先日、外務があったときの帰りの道草として寄っていた神社ですが、正面の鳥居までの道がとても幻想的でしたので、写真に撮りました。コンクリートがコケで包まれて、ビロードのような色をしている不思議な参道なんです。つるつるなので、油断すると転んでしまいそうになるのですが、素敵な参道です。自然の力を感じるところですね。

 そして、黄金色に輝く石灯籠…もちろん、夕日が当たっているだけなのですが、なかなか、雰囲気が出来ています。一瞬、竹取物語の光る竹のように、石灯籠が輝いてみえていたりします。神秘的な景色でした。

 幻想的な雰囲気を感じつつお参りをした上で、また次の道草をしました。

 本日の道草は、龍神様に会いに行く道草となりました。道草というと怒られてしまいそうですが、素敵な道草になりました。

八大龍王総本殿

 お寺さんなのか、神社様なのか、判別が難しいところですが、お寺さんが管理されているようでした。この祠の向こうには、龍が住んでいたとされる池があります。

八大龍王

 祠は、神社という感じでした。龍神様は、水の神様と言われる瀬尾律姫命の分身と聞いたことがありますが、とても温かい神様とお聞きしていましたので、日頃の思いをこめて、一杯お参りをさせて頂きました。

 龍神様の神社は、もう一つ近くにありまして、八大白龍大神という神社がありました。

 白竜様もお参りをしようとお邪魔したのですが、ここで、トラブル発生!!

 大変なことになってしまいました。既に日没のあとでしたので、もちろん社務所などは閉まっていたわけですが、手水舎で手を清めようとしたら、突然非常ベルが!!!周りのウォーキングをしている人たちもこちらを見て、それでも鳴り止まず…ごまウシはパニック状態…。

 どうしよう、どうしようとまごつきながらも、しっかり、本堂にお賽銭とお参りと…しっかり終わらせたのですが、ずっとなりっぱなし…。少し距離を開けて、待機しているとようやく鳴り止みました…。

 結果として、写真を収めることはできませんでした。

 きっと、白龍様が愛嬌で、ごまウシに悪戯をされたに違いない…なんとなく、びっくりしましたが、温もりを感じたので、非常識な時間のお邪魔を謝罪しつつ、龍神様のいらっしゃる池をじっくり眺めた上で帰りました。

 

 お参りは、やはり、日没前に終わらせた方が良いのかな…ちょっと反省しているごまウシでした。