ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。

精神科診療について考える4

 さて、ごまウシが医師として精神科診療を行っていることについての意義について本日は、考えてみたいと思います。あくまで主観が多く含まれておりますので、その点では、異論を唱えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで、ごまウシの想いですので、お許しください。

 

 精神科診療については、現在ごまウシの取り組みとしては、一般的な精神科診療とは、少しずれた部分を走っております。先ずは、ひとつは、緩和ケアとしての精神科診療です。いわゆるがん患者さん方々への精神科診療です。そして、総合病院での精神科医としての入院患者さんへのアプローチです。そして、外来部門は、認知症の診断とケアについての診療を行っております。

 先ずは、緩和ケアについては、精神科医は、おおもとの疾患であるがんに対しては、全くの無力です(精神安定が発がん率を下げるなどのデータはありますが…それは置いておいて…)。ターゲットは、がんという病域を持ってしまったことによりショックと理由のない罪悪感、そして、なんとも言えない怒り、絶望感、不安感といったものが中心となると思いますが、根本的ながんを消すなんて言う事は出来ませんので、根本的にこれらのこころの揺らぎにたいして消去するような活動はできません。緩和ケアの考え方の土台でもありますが、緩和医療と精神か緩和(サイコオンコロジー)の中では、がんという疾患に関わる、様々な悩み事を「解決」しつつ、穏やかな日々を過ごすことができるようにすると言うことがテーマとなります。「解決」については、根本解決ではなく、対症療法を意味しています。痛みを取ったり化学療法などの倦怠感をとったりなどなどです。こころのケアについては、先ほどのこころの揺らぎに対して、揺らぎを消すことが解決ではなく、この揺らぎを限りなく生活に影響させないようにすることがテーマとなります。

 がんという病気になってしまったからと言って、「幸せを失う」と同じ意味でないことは明白です。しかし、がんという課題自体が、全ての幸せをそぎ落としてしまうように感じてしまうことが通常のこころの反応と言えるでしょう。その心の叫びをどのようにして、方向を別の方向に向けさせるか…。これがごまウシがもつテーマとして精神療法を通じて、「がんだけど幸せ」と言えるように導いて行くような思考を導くような取り組みをしています。思考として悲観的になりすぎて、冷静さを失ってしまっているときにお薬が登場しますが、可能な限り、お薬を登場させません。幸せの追求は誰にでも平等にあります。

 次に、認知症ケアについてですが、認知症は、現在の技術では治癒が不可能な疾患です。アルツハイマー認知症レビー小体型認知症、脳血管性認知症などなど。もちろん専門医の中では、「治療可能な認知症」という言葉があるのですが、これは、脳の認知機能の低下が治療できる物理的なものとして存在している場合に限られます。「認知症」という定義に当てはまる病気は、原則治りません。

 治らない疾患になぜ診療をする必要があるのか…?これこそが、緩和ケアと通じる概念ではありますが認知症になったからと言って「幸せを失う」と言うことではないという意味を示しています。

 ケアというのは、具体的な対応方法、ご本人に向けたアドバイスなど複合的なものとなります。ご本人が、日々の認知機能の低下に対して混乱したりすることのないように、それから、今のところで分かっているデータをフル活用しながら、進行を少しでも遅らせる方法をとるアドバイスをしたり、さらに言えば、家族が介護疲れでふらふらにならないためにはどう向き合ったらいいのか…などなど。

 そして、外来診療を超えたところでのさらなる講演活動があります。これは、診療報酬で頂けるものではありませんので、県の委託事業としての疾患センターとしての資金での運営になったり、行政からのご協力などから行っていることです。今のところ民間からのお誘いはないのですが、いわゆる啓発活動という事になります。

 早期発見、早期対応、そして、早期に対策を講じることによる気持ちのゆとりなど。

 これらのアドバイスを通して、「認知症だけど幸せ」という考えに導けるように日々試行錯誤を続けています。

 

 以上のように、ごまウシの日々の活動は、理想的に申し上げるならば、みなさんに、幸せにするための取り組みという事になるでしょう。言葉で申し上げるのは、簡単でありつつ、自分の取り組みとして語るには恥ずかしいやら気持ち悪いやらと言ったところですが、医師免許の活用方法として、幸せを導くために取り組むという事は国家プロジェクトとも相違しないと考えているところです。

 ごまウシの活動に賛同を持たれる方、求められる方いらっしゃいましたら、ご一報いただけましたら、どこまでも、駆けつけたいと思っております(これも理想表現かもしれませんが)。

 

 

精神科診療について考える3

 本日のテーマとしては、ごまウシが考える医師としての精神科診療の方向性と展望について考えてみたいと思います。

 精神科診療は、昨日まで触れていたとおり、診療の道具は「口」です。決してメスを持ったりするわけではありません。そのため、誰でもできてしまうことは確かなのです。

 ただし、精神科診療については、当然医学的根拠というデータを集め、その上で秩序だった精神療法を行っていることが確かになります。その点では、医師として学び、経験するという事の必要性が存在することがあります。ただし、これについても、医師免許を保有していなければ、学習することができないと言うわけでもありませんし、現場で学ぶことも、様々な方法で学ぶこともできるでしょう。

 唯一、医師でないとできないことは、お薬の処方ですが、ごまウシとしては、そちらを主力にすることはあまり前向きに考えていないため、「口」医師としてのメスのような扱いで、行っていくための方向性として考えてみたいと思います。

 確かに冷ややかな目で見れば、ごまウシの考えている方向性は、必ずしも医師でないとできない資格に束縛されたものではありませんが、発言する一つ一つについては、国が認めた医師免許の責務に担保するものとして考えております。

 

 それが、やはり、こころをcureする事ですね。カウンセリング、占い相談でも確かにcureあるいはtherapyとしての位置づけはありますが、診療行為として国が認めた形でcureを行っているという事になるため、金銭的契約ではなくて、国家プロジェクトのひとつとして取り組む姿勢であるというところに、区別をしていきたいと思います。ここで、おことわりですが、「金銭的契約」という表現はとてもとげとげしいものだと思いますが、あくまで、医師としてと言う意味合いでこのようなとげとげしい表現で区別しているため、カウンセリング、占いを商売的視点で見ることを示しているわけではありません。

 国、厚生労働省が、保険診療として精神科を認めていることは、何をすることを求めていることだろうか…と言うことを考えてみると、みえてくるものがあります。

 これは、医療費をかけることで国民が心理的な健康を導くことができるようにすることです。心理的な健康という表現がわかりにくいので、さらに言えば、「国民の幸せを導くこと」でしょう。もちろんカウンセリングや占いもこれをテーマとしている場合は多々ありますが、国家プロジェクトではありません。

 精神科診療は、国の施策として、広く国民を幸せにすることがテーマとなっており、そのため、保険診療として認められているものと考えることができます。

 外来を受診される、様々な心の問題を抱えている方が、心の問題を解決し、幸せにすることが単純にはお仕事になります。ただし、心の問題は、必ずしも解決するわけではありません。心の問題の中には、物理的な問題であったり、器質的な問題であったり、薬物療法や精神療法では解決しないものも多々あります。そういった場合に、精神科が果たすべき役割があると考えております。

 これが、心の問題に溺れてしまわないように、心の問題と上手に向き合えるようにガイドをし、問題に向き合いながらも幸せな日々を過ごせるように導いて行くことでしょう。そのことにより、国家プロジェクトで言えば、お仕事など集中できなくなっていた心理状態をお仕事に向けられるように誘導し、その結果として収益を得れば、税金が発生し、国家財政に少しでも助力できる…と言うものになるでしょう。

 精神科診療で、国民が幸せになれば、税収が上がり、国家財政を少しでも上向きにさせる。これが精神科診療の実は真髄ではないかと…実利的にはごまウシは考えております。

 

 さて次が最後になりますが、ごまウシが、この実利的な思考の中で、最終的に診療理念としてどのように考えながら悩み突き進んでいるかを語ろうと思います…どんどん、ごまウシは自分で自分を美化してしまっているようで恐ろしくなってきましたが…次は現実はともかく理念的理想的な目標を持って執り行っていることを語ります。

 

 

精神科診療について考える2

 さて、引き続き精神科診療について向き合ってみたいと思います。

 ごまウシは日々精神科診療というものに向き合っております。昨日表現をさせていただいた「身体科」との違いを踏まえて日々思う気持ちについて触れてみたいと思います。

 

 ごまウシも一応医師免許を保有して診療を行っておりますが、少しは、行うことはありますが、身体に働きかける治療というものは、本当に限られています。

 私が、最近行ってきた者としては、心肺停止した患者への蘇生と気管内挿管。中心静脈栄養の為の点滴の留置、褥瘡(床ずれ)の壊死組織に対して切開、切除と言ったところでしょうか。しかし、これはめったに行わない処置になります。多くの精神科医はこれを研修医以来行ったことない場合もあります。

 ほとんどの日々をそのような処置を行わず、口だけを仕事として活用しているなかで、疑念を感じてしまうことがあります。気管内挿管、中心静脈の点滴留置、切開などは、これは医師のみができる手技で、これを医師免許を保有していない人が行うと「傷害罪」として刑法で罰せられることとなります。人のけがをさせる行為ですから。これができるのが医師としての醍醐味でしょう。しかしながら、精神科医は、医師でないとできない手技ではない、口を使ったお仕事です。

 言い換えてしまえば、誰でもできてしまうことなのです。確かに、お薬を処方をします。これも医師としての特権ではありますが、それ以外の行為については、口を使ったお仕事…。時には、カウンセラーに面談を託すことがあったりします。

 そもそも、精神科医は医師としての活動をしているのだろうか?

 このような疑念に駆られてしまうことになります。

 

 ごまウシの活動は、保険診療として、外来精神療法を行ったり、入院であれば入院精神療法を行ったりしています。この精神療法を行うことができるのは医師のみです。それを保険診療として行います。カウンセラーが診療を行うことはできませんので、カウンセラーが単独で面談をする場合には、完全な実費を請求されることとなります。しかし、実費を請求されるにしても、医師免許がなくても行えてしまうじゃないか…と言うことになります。

 さらに、深めていくと、占い師などが行っているカウンセリングだって、立派な精神療法になり得るものの可能性があります。

 

 ここまでお話を深めていくと…果たして、精神科医は、医師としてまともな活動をしているのだろうか…ごまウシは、医師としての活動をしているのだろうか?などと悩んでしまうようになります。

 先ほどの処置は、人にけがをさせるという一面がありますが、口については、物理的なけがをさせることはありません。ただし、言葉の暴力という表現がある通り、こころにはけがを負わせることができるでしょう。ただし、言葉の暴力は、医師免許とは関係なく、誰でもできてしまうもの、そして、これについては、様々な刑法上の表現はありますが、医師であったら許されるものではありません。同じように罰せられます。

 それでは、医師免許を保有している精神科医が行う口を使った治療は、医師でないといけないのだろうか…。振り出しに戻るような、お話になってしまいますが、ごまウシが日頃悩み悩んでいる部分がこの部分になります。

 

 次のステップでは、ごまウシが今行っている診療へのポリシーについて触れてみたいと思います。

 

 

精神科診療について考える1

 最近の悩み事…というか、考えごとでしょうか…ごまウシは精神科医としての活動をしているわけですが、果たして、どちらに向いているのだろうか…と言うところです。

 

 精神科診療について、他の診療科では普通にやるのに、精神科ではやらないこと、そして、他の診療科では目的としないのに、精神科では専らとしていることなど…。先ずはその点を触れてみたいと思います。

 

 多くの診療科は、もちろんですが、身体の治療に向けて診療を行います。これが主軸であることは間違いありません。メンタルケアを専らとする診療科は、精神科だけです。もちろん、多少は、多くの診療科でもメンタルケアもするでしょうし、ごまウシも含めて精神科医も身体的治療も行います。医師免許を保有しているわけですので、診療していけないわけではありません。

 

 身体を治療する診療科のことを、精神科では、身体科と表現をしてひとまとめにしています。それは、ある意味、精神科医のおごり的な意味もあったり、孤立した存在である意味もあったり、独特であることを示している意味であったり、様々ではありますが、少なくとも、「うちは他の診療科とは違う」という意味合いを前面に出した表現になります。

 身体を治療する診療科では、当然ながら、進退に問題がないかどうかの身体チェックの診察と血圧などのバイタル測定、そして、血液検査、日頃の体調に対する問いなどこれらから、各診療科が必要としている情報を集めていきます。日頃の通院では、日常的な面での生活指導や症状の有無などを確認する程度で終わったしまうことも多いでしょう。そして、時には、処置という形で、身体に、侵襲的な事を行うこともあります。化膿しているところを切開をしたり、あるいは、ギブスなどの固定処置を行ったり、時には、局所麻酔薬を注射して痛みなどを除去したり…。

 あくまで外来診療でのお話ですが、精神科ではどうでしょうか?それぞれのドクターの裁量にはもちろんよるのですが、原則的には、「お話を伺う」と言うことに徹します。もちろん、視診として表情や顔色などは観察をするのですが、身体接触を伴う診察を行うことはまずありません。そして、処置というものもありません。精神科医が、メスを持って化膿巣の切開を行うなんて言うことは、まずないでしょう。時々行うとすれば、注射薬剤の筋肉注射くらいでしょうか。バイタルについても、看護師にお願いをしていることも多いのですが、それすらもしていないことがあります。時には診察にベッドすらないお部屋も多くあります。

 

 精神科という診療科は、とにかく、お話を伺ったりする、おしゃべりを主軸とした診療であることは間違いないわけです。そのため、身体に触れることなく診療を終えることがほとんどであることは間違いありません。その点では、「身体科」の診療とは大きく異なっていることは間違いないことで、「身体科」という表現で差別化されるのも無理もないかもしれません。

 

 この身体を管理をしない精神科が抱く、思いという事について、あくまでごまウシの主観ではありますが、触れてみたいと思います。

 

 

神々のお宅巡りVol.83

 本日のお宅巡りは、具体的にどちらにお邪魔させていただいたというお話ではなくて、お邪魔させていただくことで、気持ちの変化などを触れてみたいと思います。

 

 お邪魔させていただいたお宅は、いずれも電車の駅からはだいぶ離れていたこともあり、車を活用していきました。軽装で言ったので、ご神体のお山まではのぼりませんでしたが、中腹あたりまでのぼりながら、広がる景色を眺めました。

大縣神社より

 眼下には、お宅と藤の木々が並んでいます。やはり壮大な景色というのはすばらしいですね。こういう景色を見ているとやはり深呼吸をしたくなりますね。気持ちを大きくし、リラックスをし…日頃の悩み事は決して消えるわけではないけど、その悩み事が、頭の中で大きく支配をしていたりするときには、この壮大な景色などを見ると、少し、占めている割合が小さくなるような感覚になります。

 悩み事というのは、「解決しない」からこそ悩むのであって、考えたからと言って答えがすっと出るわけではありません。そのため、考え始めれば、どんどん深みにはまっていくようなものですよね。それを、中断する勇気はなかなかないものです。ただし、これを中断しなければ、生活に支障が出てきますし、大拙な事への集中が妨げられたりします。

 そんなときにこの景色を見ると…そう、「自分には重たいけど、現実的には、小さなものだな…」と感じられて、ま、今はいいか。なんていう風に思えるようになります。

 

 もちろん、お社にお参りをして気持ちをこめて日々の感謝の言葉をお伝えすることでも、気持ちが切り替わりますね。そんなときに、心地よい風が背中を後押ししてくれたり、何かしら祠から温もりを感じるような熱のようなものを感じたりすると、ホッとしますよね。

 宗教という概念は置いておいて、やはり、人々がお参りする場所…癒やしのある環境があるんですよね。

稲荷神社

 無人のお社にお邪魔をすると、その空間は自分だけのために存在します。「お願い事し放題」なんて言うこともあるのですが、時間の許す限り、ゆったりと過ごすことができます。

 社務所無人の静かなお社は決して綺麗に整っているわけではありませんし、ぐるっと回ってもさほど時間のかかる場所ではないことが多いですが、不思議と自然と一体化したような気持ちになり、身を委ねているような感触になります。特別にお参りをする前に、既にその雰囲気にこころが落ち着いてくる感じがありますね。

 

 自然と吹いてくる風が、何かすーっと身体の中を透き通る感じとなり、さらには、鳥のさえずりや虫の鳴き声などが、頭の芯に静まりかけるように呼びかけているようで…。時々外を走る車の音などで…「え…そばに道があるのか…」などとがっかりさせてしまいますが…それでも、ホッとできますよね。

 

 神社、仏閣、そして、教会やモスクなど色々な宗教の施設はありますが、それぞれの宗教的視点はあるものの、このような施設は不思議と気持ちが休まるものですよね。

 お宅巡りは、宗教を問いません。ぜひ、巡りながら、気持ちに癒やしを導くとよいと思います。

歩数

 車での移動であったこと、軽装であったことなどから、移動距離としては、10kmほど。

 以前のゴリゴリ歩いていた距離に比べれば、かわいらしいものですが、それなりに歩けてはいるかな…。

 

 

潮汐ロック

 十五夜の満月はとても素敵な夜景を作ってもらえます。付きの面には、ウサギさんが餅つきをしている…と言ったところから、団子を食べたりする…などとありますが、いつものお月様の姿ですね。

 ところで、この月がいつも同じ模様をしているのはどうしてでしょう?世界中でどこで見ても月の模様は同じです。言い換えると、月は、地球に対して、いつも同じ面を向けているというものです。この現象については、潮汐ロックなどという言葉で説明されています。

 

 本日は、ごまウシが知っている潮汐ロックについての説明を行いたいと思います。そのためには重力というものを説明していく必要があります。

 重力は、簡単に説明をしようとすれば、シンプルに磁力と考えてもらうとわかりやすいのですが、S極とN極という概念は捨てて、引き合うところだけに注目してください。それは、反重力という概念はさすがにここで登場させるわけにいかないからです。

 

 月の重力が地球に与える影響について見てみると、これは潮位の変動に表れてきます。これは言い換えると、月の重力の影響により、地球は、形が変わり、月寄りに重心が偏ることとなります。これが反対の月の場合は、地球のさらに巨大な重力により、中心核が地球側に偏ることになります。

 その月が地球の周りをぐるぐる回っている場合、偏った重力の方をどうしても地球側に向けるようになっていきます。そうすると徐々に、月の公転と月の自転がシンクロしてくることとなります。そうすると、最終的には、常に、重心が地球に寄った側を常に地球に向けて回り続けることとなります。だるまさんが、どんなにひっくり返しても立ち上げるのと同じ感じだと言えます。

 

 潮汐ロックは、月と地球の関係でも言われていますが、大きな重力差のある星と星が近い距離で公転しあっている場合、小さい星が潮汐ロックされていることが専らです。

 有名なお話としては、太陽よりもずっと小さい赤色矮星の周りに回る、生物が生きているかもしれないという惑星は、赤色矮星のとても近いところを公転するため、常に同じ方向を向いて公転するため、目玉のおやじのような液体の水が存在する地域と、氷で包まれた暗い地域とで構成される惑星になるとも言われています。

 Universal Sandbox 2にてシミュレーションをしてみましたが、残念ながらうまく作れませんでしたが、潮汐ロックがあることで、月は常に同じ模様を見せてくれるので、そういう点では、月夜は安定の安心感がありますね。

 

 

十五夜

 本日は十五夜の満月でした。

 帰り道に綺麗なお月様を眺めることが出来ました。しかし、やっぱり、夜間の写真は、きちんとしたデジカメが必要ですね。ごまウシのスマホでは、単なる光る玉にしかみえません。

 それを前提に頑張って撮影をしてみました。

木々の隙間の満月

 十五夜は、神々のお宅においても催し物があるのか、祝詞が耳に入ってきました。

 賑やかなお宅もお邪魔したいところでしたが、今回は遠慮させていただき、近くにあった稲荷神社をお邪魔しました。

稲荷神社と満月

 いかがですか?

 満月と言えば、ウサギさんですが、お稲荷さんには、白狐様と猫様がいらっしゃるだけでした。さすがに普通にウサギ様がいらっしゃるとびっくりですね。

 

 満月の夜には、しっかりと、団子を食べて、まったりと夜空を眺めていたいところですね。

 

十五夜

十五夜

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