もちろん石橋と言えば、「石橋をたたいて渡る」ということわざになるわけですが、このことわざは、最終的に石橋を渡りきることをストーリーとしては語っていることになります。
石橋をたたくの意味としては、立派な石橋であっても崩れてしまったりしないかどうか心配なので、気になって堅牢性を確認するためにたたき、それで確認して安心して渡るというものになります。心配性や神経質な方の事を揶揄するようなことわざではありますが、世の中の思考では、その考えを超越していることもあります。
これが強迫と言われる思考になります。
確認をして、一旦安心をするが、それと同時に新たに不安が発生し確認をすると言うことを繰り返してしまうのが強迫の土台にあります。
具体的には…例えば、手洗い強迫については…
手を洗って綺麗になった
まだちょっと汚れているかな?
もう少し洗わなきゃ…洗ってよかった…
でもまだ洗い残しがあるかもしれない…
もう1回洗おう…よし、綺麗になった。
でも、ばい菌とか見えないところに残っているかも…
よし、これでいい。…
でも…
といった感じで、ぐるぐると洗う→安心→不安→洗う→安心…
回ってしまう思考が強迫になります。
これでは、いつまでも石橋を渡ること自体ができません。
ごまウシは一時期、このような状況のことを「石橋をたたき割る」と描写していましたが、実際のところは、石橋のたたいて堅牢性を確認し続けて、石橋に足を踏み出すことができなくて尻込みをしている状態と言えそうですね。
この堂々巡りを解消する方法は、不安に打ち勝つ気合が必要になってきます。いわゆる根性論が必要になり、その根性が、度胸につながり、石橋を「えいっ!」と渡ることにつながります。
先ほどの手洗い強迫の方は、時間はとてもかかりますが、最終的に洗い終わります。最後に「えいっ!」ってやっているわけです。ただし、それに沿う当時分をかけてしまっているので、生活に支障を来してしまっているわけです。
強迫は、行動の強迫に限りません。なかなか難しいのは、観念強迫というのがあります。強迫のターゲットとなっているものが行動ではなく、概念的なことになっている場合、不安な思考がぐるぐると巡り巡ってしまうこととなります。
日常生活の中で心配事や未解決の問題などについては、このような、不安のぐるぐる連鎖というのが発生しています。
心配になったりすれば、誰でも臆病になり、石橋をたたき始めてしまいます。ただし、時間というのは前に進んでいくもの。石橋の手前で立ち往生をしていては、いつまでも取り残されてしまいます。
最後には、「えいっ!」と踏み込むことが重要。
橋が崩れるかも…
そう、そうなったらなったときです。それに、石橋をたたいていても、崩れるときは崩れる。たたかないで堂々と渡ったって崩れるときは崩れる。実は結果は同じなんですよね。
決まった結果に対して、見えないために、そちらに近づくことを恐れぐるぐる回っているのが強迫といってもいいかもしれません。
強迫に対しては、最終目標は、妥協、そして、開き直りという事になります。
最終的には根性論ですね。