昔から、この二つの人間の本質についての議論は、果てしなくされてきたものですが、ごまウシの近辺での出来事として、この考え方の二つの側面を見る機会がありましたので、この点について、触れてみたいと思います(決してどちらかの考えが間違っているということを議論しているわけではありません)
対人的なトラブルが発生したときに、性悪説と性善説では、考えの方向性がもちろん大きく違ってきますが、今回の考察は、この二つの考え方が、どれくらい労力に差が出るのかということを見てみたいと思います。
対人トラブルが発生した場合、性悪説に基づいた考え方の場合「わざとこのような状況になった可能性がある、また、こちらの考えていることに否定的に考えているに違いない、自分のいないところで、悪口など言っているに違いない」と言ったような、人を疑うような思考がたくさん並ぶことになります。
一方で、性善説の場合は、「たまたま困難になっただけだ。気付いていないだけで、何も考えていないだろう、自分の事には特段気にはとめていないだろう」と言ったような、いわゆる相手が悪意を持って自分に向いている発想がなく、気楽な関係にあるという解釈のため、このような気楽な発想が並ぶようになります。
どちらが楽なのかというのは、もちろん一目瞭然だと思いますが、その視点だけでは、発展性がないので、性悪説と性善説をさらに先を見通した場合はどうだろうか…と言うことを考えてみようと思います。
性悪説の場合は、当然周りに対しての警戒心を強めることになります。自分に対して害を与えるような考え方や策略がないだろうか、周囲へのアンテナを強める行動が深まります。その結果として、何かの新たなトラブルについては、早期に察知が出来、早期対応が出来たりするようなことが多くなります。
ところが性善説の場合は、逆に無警戒になるため、周囲への配慮は、あまり考えず、目の前のトラブルに対して対処することに集中できるようになります。気楽な考えが、苦痛さを軽減させてくれるので気楽なのですが、新たなトラブルに対しての対処は遅れがちになり、新たに出てきたトラブルの対処に苦労をする可能性がありそうです。
この二つの考え方は、もちろん、対人的思考ではありますが、類似した考え方としては、慎重さとおおざっぱさとがあると思います。慎重さは、先々に、何か自分がミスをしたり、想定外のことが起こったりするだろうと考えることにより、石橋をたたいて渡ることとなるのですが、おおざっぱですと、「まあなんとかなるだろう」などといった考えに基づいて、のんきに行動することとなります。
どちらの方向性も、一長一短があります。どちらがいいのかというわけではないことが分かりますが、一見すると性悪説はいいイメージがわきにくいのですが、慎重さという観点で言えば、悪いばかりではないように感じられます。性善説についても、余分なことを考えないで相手のことなどを言い方向に考えたりするためとても平和な感じはしますが、新たなミスやトラブルを導いたり避けられなかったりすることもありますので、全てがいいわけではないということも分かります。
以上のことから、性悪説、性善説、どちらがいいか悪いかではなく、時と場合によって、この双方の考えを上手に利用していくことが重要であると考えられます。