ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

精神医学と宗教

 ごまウシの最近の興味関心のところは、このテーマの部分があったりしますが、このテーマは、一筋縄では語れないとても深いものがあります。

 今回のお話は、精神医学と宗教を対峙させてお話しするのではなく、むしろ、積極的に宗教で語られている説法というものが精神科の診療の中での認知療法などに生かされる部分があることを触れてみたいと思います。

 

 宗教の世界は、新しい宗教は除いて、数百年・数千年の歴史があり、信仰する人々により受け継がれ、そして様々な時代を通り過ぎて現在に至っている存在です。その土台としてあがめる存在が一神教と言われている唯一神の存在から、様々な神々が存在する多神教に至るまで、様々であることも確かではあります。

 神様の位置づけについては、精神医学で議論する内容ではありませんのでその点は、棚に上げておきます。それぞれの宗教の中で必ず、説法として伝えられていることの中に、生活の中での振る舞い方や考え方、価値観といったものが多く存在します。

 

 この説法がなかなか面白いのです。精神科診療では、この説法はなんと活用できてしまったりします。

 代表的な事柄に「日々に感謝をする」「不安は妄想である。妄想は害である」などと言ったものがあります。

 

 「日々に感謝をする」という説法は、おそらく、多くの宗教や宗派において存在する説法の言葉ではないでしょうか?

 気持ちの安定は、確かに感謝をするという事により構築される部分は実際に存在しており、先人達が、その感覚を経験的につかみ取り、それが積み上げられて、現在の説法につながっているというところと言えます。精神医学においても、ルーツをたどっていくと哲学につながる部分もあり、その点では、今までの人の考え方や価値観を追求した結果としての理論が集められています。そのため、「日々に感謝をする」事が日々の心地よい時間を構築するためのとても大切な考え方であることが積み上げられてできあがったと言えましょう。

 

 「不安は妄想」については、これはなるほどと合点する部分がありました。妄想は精神医学では、決して不安のことを言っているわけではありませんが、「妄想」とたとえられるような不安を抱いて困惑していることを一般的な言葉で言えば、「取り越し苦労」と言われていますね。不安がさらに不安を招き、頭の中で不安な出来事がイメージされた上で、究極の事態まで最悪なシナリオを頭の中で思い描いてしまう現象を「不安は妄想」と言っていることになります。当然ながら、それは、日々の生活の中では「害」となってしまうわけです。

 不安という現象は、生体防御として備わっている本能の一部ではあるものの、過剰となれば、自身を滅ぼしてしまうほどのものになってしまいます。「石橋をたたいて渡る」もよいたとえですが、それでも渡れなければ、何もできません。

 

 こんな感じで、宗教の世界の中には、現代のストレス社会に対応するためのすべというものも含まれていることは確かです。信仰すると言うことを提案しているわけではありませんが、説法、聖書といった宗教の情報は、案外役に立つものも多いというのは確かですね。特定の宗教にこだわることなく広く触れてみることをごまウシとしては提案したいなと思って降ります。…ただし、バリバリの宗教家の方には、この考え方にはお叱りを受けてしまいそうですが、ごまウシは宗教家ではありませんので、お許し下さい。