ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

認知症診療における薬物療法の注意点

 認知症薬物療法と言えば、登場する薬剤は、現在のところ保険診療認知症の病名で使用できる薬剤は、アルツハイマー認知症に対する治療薬とレビー小体型認知症に対する治療薬で、現実的には、アルツハイマー認知症レビー小体型認知症の合併型を想定した場合には、最大2種類のアルツハイマー認知症の薬剤とレビー小体型認知症の薬剤1種類の3種類が同時処方されるまでとなります。

 そのため、それ以上の薬剤が処方されている場合は、認知症としての適応のない薬剤を使用していることとなります。現実的には、この認知症として適応の内約剤が多数使われていることが専らとなります。

 認知症の症状としての代表的な、もの忘れであったり、時間や場所について見当する力が障害されるような症状に対して根本的に治してくれる薬剤は存在しません。現在は、かろうじて進行を遅らせるためと、レビー小体型認知症であれば、合併するパーキンソンの症状を軽減するための薬剤と言ったところです。

 これらの症状のことを病気そのものの症状のため、中核症状と言いますが、これらは、頑張っても改善しないため、これらの症状と上手におつき合うする事を前提とした対応方法をアドバイスすることになります。

 しかし、薬物療法の主軸は実は、この中核症状によって、生じてくる、本人のできていたはずのことができなくなる体験が増えることに対する不安感や焦り、さらには、できないことによって周囲から指摘される羞恥心や怒り、恥ずかしさなど心理的な影響が中心となり、周囲にいる人たちとの意見が食い違ったりすることで孤独感を感じたりと、精神的に追い込まれることによって、様々な情緒不安定な症状が出現してしまうため、これらの精神症状に対して薬物療法を行っているのが、専らとなります。

 抑うつ気分があれば、うつ病の治療薬を用い、不安の症状が出現すれば、抗不安薬を用いたりします。さらにイライラが強まれば、気分安定薬であったり、興奮などを抑えるために、躁うつ病統合失調症に使用する薬剤を使用したりします。

 以上のように、症状に対して薬を使うというもので、対症療法というものとなります。

 精神的な面での治療であるため、分かりにくいと思うので、体の病気でたとえを置き換えると、認知症→肺炎と置き換えた場合で言えば、肺炎に対する直接的な治療は、抗生剤など肺炎の根本原因を除去するための治療薬で、一方で、それによって生じている発熱などに対しては、解熱剤などを用いるわけです。この解熱剤などの治療薬のことを対症療法と言っています。

 肺炎の場合は、高熱が出ていれば、解熱剤、さらに咳が出ていれば、咳止め、そして、痰が絡んでいれば、去痰薬などなど、対症療法が並びますが、症状は誰が見ても分かるような具体的なものであるため、例えば咳が治まれば、咳止めは当然終了させることになりますし、発熱がなくなれば解熱剤は使用しなくなります。

 ところが認知症の対症療法は、精神症状に対して使用するもので、根本原因が決して治癒できるものではないため、根本が存在する中で対症療法を続けていくため、咳が治まって咳止めをやめると言ったような発想がわきにくくなります。

 しかし、認知症は、周囲のサポートや本人の認知機能の低下の傾向によっては、例えば不安症状が解消していったり、情緒不安定性も解消していったりすることがあります。ただし、分かる形で消えるわけではないため、ついつい薬物療法を知らないまま続けてしまうことがあります。気づけば、これらの薬物療法により、鎮静が加えられ続けることによりさらなる認知機能の低下を導き、1日通して何もしなくなるようなアパシーといった状態に落ちいてしまうことがあります。アパシーという状態になると、何もしなくなるので、実際サポーター側から見ると、面倒がかからなくなり、言われたことに従順に従い、徘徊などの外へ勝手に出て行ったりすることもなくなるため、とても楽になりますが、実は、本人にとっては悲惨な状況になっていることがあります。

 認知症診療における薬物療法は、とにかく本人の活動性や心理状態を細やかに観察をしていき、薬物療法として、必要なのか不必要になったのかどうかを考え、一度処方した薬剤をそのまま継続するのではなく、思い切ってどんどん削っていく勇気も必要になります。

 くれぐれも多剤併用療法へ発展していかないようにするためにも、ご本人をサポートするご家族には、本人の活動性や安定性をじっくり観察し、安定していれば、薬物療法によって安定している場合もありますが、長期にわたり安定しているときには、減薬などの提案をためらいなく担当医におっしゃっていただくことをお勧めしたいと思います。

 気づかないうちに鎮静を欠けてしまって本人の本来のアクティビティを押さえ込んでしまっていることがあり得ます。

 最近口げんかがなくなったから楽になったと思うのではなく、口げんかする元気さがなくなったような感じがするという風に捉えるようにしていただくのが良いと思います。

 是非、たくさんの薬で押さえ込まれた状態にならないように、充分観察し、減薬は勇気を持ってトライしていただくことをお薦めします。もちろん、減薬については、必ず、処方した担当医に相談をしてください。

 

 

物流システムの安定

 日常的に私は、Amazonの通販の利用は多いのですが、配達のスピードの速さはもちろん今までも驚くほどで感心していましたが、配送の時間については、運転手さんの回り方などで何時間もずれることは日常的なもので、配達予定時間もそれに合わせて数時間の幅で定められていることは当たり前となっていますよね。

 これは、イレギュラーな配達物に対する物流システムの当然ながらのブレであって、本来の実力である正確さはどれくらいのものでしょうか…と言うことは、自宅にいては分からないものです。毎日定期的に配達されるものとして新聞がありますが、新聞でも簡単に1時間以上のブレは生じるもので、出勤の時に新聞受けから新聞を持って出勤できていた時もありましたが、最近では結果的に帰ったときに用務と言ったように届く時間のブレのため、通勤時に読めないことも多かったりします。

 通常の定期的な配送を行う物流システムの時間的正確さについては、店舗営業をされている方なら既にご存じかと思いますが、私からするととても新鮮に感じるものでしたが、その新鮮ながらも驚くほどの正確さについては、最近ようやく発見することができました。

 私が通勤の時に利用している駅にはコンビニエンスストアがあり、ホームからコンビニの駐車場を電車が来るまでぼんやりと眺めることができます。毎日だいたい電車が到着する10分弱前にホームに立ち、ぼんやりして、ほぼ秒単位で定刻に現れる電車に乗り、通勤をしています。

 毎日何気なく駐車場を見ていると、毎日必ず同じがらのトラックがコンビニエンスに現れ、複数の商品を収納したコンテナかごを店内に持ち込み、店裏に置いてある、空のコンテナカゴを積んで出発するという作業をして立ち去っていきます。この作業を毎日確実に全行程を見ることができます。当たり前の光景でぼんやりと眺めているわけですが、私が自宅を出る時間は、テレビの時計で決まった時間で自宅を出て数分の徒歩時間を経て駅に到着しているため、おそらく誤差は信号機1回分程度、電車は秒単位で正確ですので、全行程を見守ることができることを考えると、作業全体の時間を加味すると、なんと、毎日トラックで確実に数分程度の誤差の範囲で配送ができているという事になります。

 ぼんやり見ていたので今まで気づかなかったのですが、鉄道ではなくて、通常のトラック物流の正確さがここまで正確なものであることは、考えてみれば、驚異的なものであることに気づきました。このとてつもなく正確な物流システムが、このコンビニエンスに限らずすべてのコンビニエンスに行き渡っているのが現状でしょうし、さらに言えば、スーパーやショッピングモール、それぞれの小売店への商品物流についても、定期便であれば、きっとこのくらいの正確さを確保されているのであろうと推測もできます。もちろん早朝と日中とでは交通事情の影響をかなり受けるのでしょうけど、バスの運行並みの正確さを確保していることは確かと考えられます。

 分単位で正確に物流が動き、きめ細やかなネットワークによりすべての商店に正確に物品が運ばれていくのが現代の物流システムであるという事の一部を垣間見ることができたと感じました。

 先日、国際学会のジャーナルが郵送されてくるのに月単位のブレが発生していることを書きましたが、あくまでこのジャーナルの配送については定期便です。一時期Lancetの販売元と、〒事情についての説明を受けながら、「日本の郵便事情の問題があるから届かない」と言った旨の返答をいただいたことがあり、苦情を返したことがありましたが、まさに現在の日本の物流システムを考えれば、この苦情は極めて常識的なものであったと思います。

 日本国内において、隅々まで確実にものが行き渡っているのは、多くの物流会社が、しのぎを削り、正確で確実な物流システムを構築していることによるものと考えて良いと言えます。

 昨今では、物流システムの中には、UberEatsといった簡便な物流システムも登場しつつあるものの、元来から組織的にできあがっている物流システムの正確さにはやはり勝てないのだろうと思われます。これから先、無人のドローンなどを用いた配送システムが正解的に広がり、人間の力で構築された正確な物流システムに置き換わる可能性はありますが、果たして、ロボットなどを用いたとしても現在の日本の緻密な物流システムは構築できるでしょうか…。

 もちろん、この正確な物流の中には、コンビニエンスの店員さんが配達員さんを向かい入れたり送り出したりするときに、笑顔の会話を交わしているように、人間らしい温もりも一緒に伴っていることが実際には存在しているという事も知っておく必要があることでしょう。

 物流とは縁のない私としては、とても感動的、感心する出来事でした。

 

 

アクセスが1000をこえました。

 昨日の夜に、ついにアクセス数が1000を超えました。500を超えたのが投稿数100を少しこえた頃でしたので、投稿182件目で1000を超えたのは、少しペースが速くなってきたと言えるでしょう。

 もちろん、実人数ではなくて、延べ人数であることは言うまでもありません。

 現在の私の書いているブログの書き方や構成については、率直なところ、あまり読者側への配慮はなされていないように感じています。ごっしり文字を埋め込み、それでいて、画像などはさほど多くない、とにかくがっつり読み込まなければならないような文章を連ねているので、よっぽどの読書好きでないと難しいのかもしれません。それに加えて、無配慮な誤字脱字…と。

 ならば、直せばいいじゃないかと言われそうなのですが…なかなか…(もごもごといいわけど述べています…)

 この間にスタイルを変える動きは少ししていますが、そのブログのアクセスが多くなっているとは必ずしも言えないような感じがします。その一つが、神々のお宅訪問です。完全な趣味の世界でもあり、写真も情報として提示しやすいこともあり、割合がどんどん増加をしているのですが、非常事態宣言下における移動としては、徐々に限界があり、今度の日曜日で、いったんは、休息に入りそうです。非常事態宣言が解消し、もう少し移動に安心感が戻ってきたところで、再スタートが切れたらと思うところではあります。それでも、変えたと言え、文章がぎゅって凝縮された書き方は、おそらく、読む側への配慮は欠落しているかな…。

 先日、書き始めて半年と言った記事を載せましたが、まだ半年です。このはてなブログのサイトには、検索すると10年以上掲載を続けている大先輩方もたくさんいらっしゃいます。その点で言えば、まだまだ、ひよっこです。ただ、私としては、これだけ続けられていること自体は革命的なことなのです。

 長続きできたものと言えば…パソコンの趣味と、受験勉強…くらいでしょうか。最近の専門医の勉強ですら、長続きせずに、すぐ放り出してしまって…記憶からぬけて、また勉強し直して…いつまでも受験できるところまで到達できません。

 日進月歩の今の時代、このように、はじめてはやめてなんてだらだらとしていると、おいていかれてしまうことは確かです。ぐっと集中して、やりきって次にいくというスタイルに変えていく必要があるとは思います。そのためには、根本的にこのスタイルを変えていく必要があるかもしれません。

 長い文章を書いているブログは、ないわけではありませんが、長く続けられている方々のブログはすべて長い文章とは言えません。スペースも上手に生かしながら、読者側がなじみやすいレイアウトになっていたり、行間を空けたり、ポエム調であったりとみなさん知恵を絞りながら、持久戦として取り組まれているように感じられます。

 何度となく息切れを体験している私としては、このブログも挫折しそうになったことは何度となくありました。しかし、なんとかここまで続けています。現在は、このブログもストックに入りますが、10日分以上の下書きストックがため置きされるようになり、焦ることなく、思いついたものを文章に仕立て上げるようにできています。良い傾向だと思います。ゆとりこそが継続だと思います。

 それと、文章を書く初めて、一気に終わらせる、集中力も高まったかもしれませんね。2000文字程度のものなら、休憩なく一気に書けます。…だから誤字脱字も多いのですけどね。

 アクセス1000をこえて次2000に到達する頃は、1年目を迎える頃でしょうか。それまでの間に次のステップとして、読者側への配慮をこめた文章を書いていくことを徐々に導入できればと思ったりします。1つの記事の情報量は、私としてはできれば減らしたくないのですが、文章のガツガツ書き込んでしまうところを、もう少しさらさらしたものにできないものか…他のベテランさんたちのようにスペースをしっかり活用した挿し絵を入れたりできないだろうか…。

 そうそう、挿絵ですが、自分で作ることはそもそもできません。もちろん、これは作れないのではなく作るつもりが全くないからです。なので、フリー素材の活用となるでしょう。

 アクセス1000をこえての次のステップは、とにかく、継続性については、達成しつつあるので、次は、書くばかりではなくて、読者側への配慮に向けた動きを意識してみようという事になっていくことになります。

 粘り強く、読みにくい文章にお付き合いいただいている方々が、方の力を抜いて読めるようにさらに努めてまいります。

 およそ本日の記事は、2000文字ですが、さすが勢いです。10分程度の仕上げとなりました。ならば、10分で読み返せばいいのですが、それをせずにそのままストックへ保管。これは変わらないかもしれませんが…

 

 

虫のつぶやき

(本日は、昆虫であるセミになった気持ちで…)

 私たちは、一寸の虫にも五分の魂と言われるとおり、五分の魂で必死に生活をしております。それに比べ、人間様達の偉大さは、神様と比較できないくらいのものを感じます。

 私たちセミの仲間には、人間様には追いつけないですけど、同じ哺乳類のネズミ様方よりも長い寿命を持っているものもいます。しかし、頭の回転については、とてもついて行けません。私たちは、生まれたばかりの時には何も分からず、とにかく土の中に駆け込み、しずかに木の樹液を吸いながら、ゆったりと過ごしています。一瞬見た、土の上の景色を匂いという感覚に記憶しながら…。

 私たち日本に住んでいるセミはだいたい長くても3年から4年と言ったところですが、人間様はものすごいものがありますよね。最後の力を振り絞って土から出てみたら、何もかも大きくガラッと変わっていることがあります。もちろん、土の中でゆったり過ごしていたら、突然巨大なスコップで掘り出されてしまうこともあります。

 私たちは、人間様の活動に逆らうことはできません。しかし、それでも、どうしても申し上げておきたいことがあります。人間様方、少しでも耳を傾けていただけると幸いです。

 

1.あのまぶしいひかりをなんとかして欲しい。

  私たち昆虫の多くは、明るいものにはものすごく強い魅力を感じてしまい、それが危険だと思っても、飛び込んでしまいたくなります。そして、その行動を止めることがありません。人間様方が時々、開催されているイベントで、大きな火をたいて、その周りで踊ったりとても楽しそうなことをされていますが、私たちは、真ん中の火にしか注目できなくなってしまいます。多くの仲間が、そのまま火に飛び込んでしまって、燃えて燃えてしまうことがあります。

  でも火は仕方がありません。自然にもありますのでね。ところが、火ではないのですが、そこら中にある、あの白いひかりがたまりません。夜になっても夜という感覚がなくて、一生懸命鳴いてしまう仲間もいます。あの白いひかりは、そこら中にあり、私たちセミに限らず、小さな昆虫たちが飛び込んでしまいますが、火とは違って、燃えることはないものの固いつるつるのものにぶつかり、頭が痛くなるのですが、それでも、体が勝手にそっちに飛びとみたくなります。幸い私たちは体格が大きめであるため、飛び込む昆虫を狙った同じ昆虫のクモたちが糸をはって捕まえようとしていますが、その点は問題ではありません。

  できることなら、白い筒状のもの頭をぶつけ続けるのは気分の良いものではないため、必要がなければ消していただけると幸いです。火じゃないけどやっぱり熱いです。最近は、LEDなんて言うものに変わってきているので、そこまで熱くならなくなり、明るさも控えめになってきているので、私たちも惑わされにくくなってきていますが、惹かれてしまいます。暗い夜が過ごせるようにはならないでしょうか?

 

2.あんなに速く走らなくても…

  人間様方は、この巨大なものの中に乗り込んで、ものすごいスピードで走り回っています。ぶつかった仲間はみな即死です。恐ろしいです。小さめの、一つ一つが独立して走り回るものから、長方形のいくつも連なった巨大なものまで様々ですが、私たちは、あれにぶつかったら生きていることはできません。だからといっても、避けてくれるような俊敏さはないみたいなので、避けてくれそうにありませんよね。

  ただ、もっと深刻なのは、あの大きな走るもの達の夜の姿です。恐怖の塊です。ものすごく速いスピードで走るばかりか、先頭に明るい光をともして走るため、私たちは、惹かれてしまいます。そして、近づいたら、ものすごいスピードでぶつかってくるので即死です。

  人間様方は、私たちの残骸を明るくなってから、たくさんの水を強い圧力で吹き飛ばし、そしてブラシで洗ったりして、取り除いて、またピカピカになりますが、私たちの仲間は、ペラペラの姿になったままもう帰ってきません。人間様方には欠かせないものかもしれませんが、私たち、とても困ります。

 

3.つるつるな巨塔達

  人間様方は、つるつるなものがどうもお好きなようですね。あの明るい白い光を放つつつもつるつるでしたが、走ってくる巨大なものもつるつるでした。私たちが一番困るのは、私たちの目からすると、受益を蓄えている樹木と区別のつかない、大きな壁で囲まれたもの。中には目がくらむほど高い壁で囲まれたものまでありますが、とにかく、どこもかしこもつるつるなので、止まってお休みしようと思っても、止まれないから、バタバタしてしまいます。そのまま地面に落ちてしまって、その時ひっくり返ったら、最後とも言えるつるつるの床まであったりと…。カミキリ虫様のように、吸盤みたいにつるつるなところにもくっついて止まれる仲間もいますが、私たちは、かぎ爪のような形の足ですので、全てって捕まることができません。人間様、ぜひ、壁や塔を作るときには、できればザラメのような感じにしていただけると幸いです。

 

いかがでしたか?セミになった気持ちになれましたでしょうか?

今回初めての取り組みではありますが、これから先、時々、化けてみようと思います。

 

 

他者が気づかない変化

 昨日掲載した眼鏡のお話ですが、その翌日の本日も、やはり、誰も変化を指摘されませんでしたので、結果的には、誰も気づいていないのだろうと思います。本日は緩和ケアチーム回診とカンファレンスがあった日ですが、チームのリーダーをしていることもあり、司会などをしていますが、神社巡りで日焼けしてから行くと、日焼けについては指摘をされるスタッフは何人かいます。日焼けは気づく人が多いのに、眼鏡の変化は気づかないようです。

 ちなみに、現在かけている眼鏡は、先日までかけていた眼鏡のサブとしてメインが呼唱したときに急遽使うために事前に用意をしておいたものです。そのため、形は類似したもので、色が異なるだけといった感じになっています。そのため、そもそも気づきにくいところはあります。気づいている人もいるかもしれませんが、このまま、指摘されることなく、時間がどんどん過ぎていくように私は思っており、指摘できる人自体が多分いないのではないかと思ったりします。もちろん、このブログを読まれて、「あ!そういえば、変わっている!」と思いつく方が、まれにいるかもしれませんが、その時はご指摘いただければ、前の眼鏡の色を意地悪く伺うと思います。

 さて、この眼鏡の変化に多くの人が気づけないのはなぜでしょう?もちろん、形の似た眼鏡に変わったことが一番大きな理由になるでしょうけど、形が多少変わっていても、極端でなければ、やはり気づかれることはないでしょう。ただ、一方で、眼鏡をコンタクトレンズに変えたりすると、おそらくほぼ100%みなさんが気づくことになるでしょう。この変化に気づくか気づかないかはかなりの個人差があると考えられます。

 この変化に気づきやすい方は一体どのような方でしょうか?神経質な人?観察力のある人?様々な推測が湧いてくるところですが、観察力という言葉は、曖昧ではあるものの、日頃の見方の得意不得意が物語ることは言うまでもありません。これを生理学的な面で見ていくと、面白いところが分かってきます。

 実際はどうか確認は取れませんが、この眼鏡の変化に気づける人は、おそらく、芸術家か発達障害の中の一部の方が気づくことができるのではないかと思います。

 さてどうしてでしょうか…?これは、脳の機能の個々の活用の仕方によって差が出てくると言えるでしょう。脳の構造で一般的に知られていることとして、論理の腕ある左脳と芸術脳としての右脳とが存在しています。右の脳を積極的に活用している方々は、画家などの芸術家が多く、左脳は、理論の腕あるため、筋道だって行う仕事をしている人たちなので、ほぼ全ての業種の人たちが該当します。

 眼鏡の色の違いは、どちらが認識しているかと言えば、もちろん右脳が判断していることになります。そのため、日頃から右脳を積極的に活用している人は、この色の変化に気づきやすいという事になります。一方で、論理脳を積極活用をしている人たちは、右脳機能が抑えられているため、色の変化や形の変化についてはとても気づきにくいこととなります。

 ところが発達障害の一部の方々は、左脳を使用していても右脳が抑制されないという特殊な動きをする事があり、右脳の活性が高いままの状態で生活している人も多く折られます。そのため、ちょっと舌変化に気づくことができる場合が多くあります。

 右脳も左脳も同時に活性化させられるという事はとてもすばらしいことのように感じられますが、全ての情報が一気に脳内で処理しようとするため、混乱などを生じやすい原因にもなっているようです。

 見た目というところでは気づかれないことは多いという事はいいのですが、私たちはほとんどが左脳活性派ではあるため、理論的な情報については、印象に残りやすいところがあります。言い換えると、日常的な会話の中でのお話の流れなどの変化については、気づかれやすい面があると考えられます。発言内容があると気球にネガティブな発言が増えたり、逆にネガティブな方がポジティブになったりすることについては、ちょっと舌変化であっても、周りの人は案外気づきやすかったりします。対人的なお話で言えば、相手に対する印象の変化により言葉かけの変化が発生したときには、意外と悟られることがあるという事でもあります。その点は気をつけたいところです。

 ただし、このことに注目すると、日頃のお話に気を遣いすぎて疲れ切ってしまうこととなるため、そこまで緊張しなくても良いことを一つ触れておきます。一番最初に触れました、眼鏡の変化に誰も気づけないという事について振り返ってみます。この変化を多くの人が気づくようにするのはどうしたらいいでしょう?もちろん、自分で眼鏡を変えたことを主張すればいいことですが、それは別として、多くの人が気づけるようにするためには、変える前の眼鏡をかけた姿と現在の姿とを並べて比較してもらえれば、ほぼ全ての人が気づくことができるでしょう。

 言葉に対する過敏性は強いとは言っても、前の発言と比較するような機会があれば、みな過敏な細やかなところまで気づくことでしょう。しかし、比較する機会がなければ、気づかれない確率が高くなります。

 言い換えると、毎日毎日同じような会話をしている人との関係に変化が生じたときには会話の変化に気づかれる可能性がありますが、そこまで関係性がなく、毎日会ってお話しするにしても、細かく細やかに会話の内容を記憶しているような印象のある会話をしていなければ、以前との比較はできないこととなるため、変化に気づくことは難しくなるでしょう。

 

 結論ですが、見た目の変化については多くの方が左脳活用派であるため、気づく確率はとても低いと思いますが、一方で言葉の変化については気づかれる可能性が高いと言えます。しかし、変化に気づくかどうかについては、その前の状態を頭に色濃く記憶できているかどうかにかかってきます。多くの人との対人関係において、相手の方の印象が変化したりしたときの口調の変化など気づけるかどうかは、その方との関係の深さが関係してくると言えます。多くの方との関係性で考えると、そこまで前の口調と今の口調との変化を気づける人はまれとも言えるため、その点では、さほどだからと一滴を使いすぎる必要はないと言えるでしょう。

 

 

意外に気づかれないもの

 最近メガネのレンズの汚れとフレームのゆがみの関係で、まつげがレンズに接触したりして不快感があったり、周りが見えにくかったりすることもあり、昨日から、いつもと違う眼鏡を装着して仕事をしていました。

 普段のメガネは、実は、20年近く使い続けているもので、その眼鏡と色は違うものの、形はやや似通っている別のメガネを予備として持っていましたが、いよいよ調子が悪いということで類似しているものの、いつもと違う眼鏡を着用してみたわけです。

 今までに仕事とかで装着していったことのない眼鏡であったため、いろいろと指摘されるかなと思っていましたが、1日目の入院患者からスタッフとの談話などから2日目の外来診療が完了するまでの間、一度も指摘されることなく終わりました。

 一応、不細工ながらも、顔に装着したものなので、一人くらい指摘してくれる人がいるのかなと思っていましたが、まったく気づかれなかったことは、ショックとも取れそうな部分もありますが、やっぱり、そんなものかなと思う部分がありました。

 顔そのものが変わったわけではありません。あくまでメガネの色が変わっただけです。この変化に、気づく人はまずいないということです。おしゃれを意識している方には大変申し訳ないことなのですが、大半の人たちは、個々の人の姿にそこまで細かく観察はしておらず、みな大雑把な把握に過ぎないということです。おおざっぱな把握だから、ちょっとの変化に誰も気づけないわけです。

 このお話を聞いて、「あなたは、周りに特別関心や興味を持たれていないからそのように、眼鏡を変えただけでは気づかれないのですよ」などといわれる方がおられるかもしれませんが、試しに、何か、ちょっとだけ、スタイルに変化をさせて、公の場で活動をしてみてください。指摘されることはまずないでしょう。もちろん、中には変化には気づいているけど話題として持ち出すことをされない方もいらっしゃったかもしれませんが、おそらく、周りはほとんど気づいていないことだと思います。

 さて、このようなお話から、少し、社会不安障害のような不安症状について、考えてみたいと思います。社会不安障害については、よくあるお話として、「周りから悪く見られているのではないか、そのような解釈が下されるのではないか」などといったことを不安に感じて、対人的に接することに強い不安や恐怖を感じてしまう現象です。周りが私のことを不快に思ったりするのではないかといった感触ではありますが、そのように周りの人が、一人一人の人に対して講釈を付けているような状況であれば、当然メガネが変わったりすれば、複数人からの指摘はおそらくあることでしょう。それが実際はほとんどないわけです。

 このことからも、社会不安障害などのように、対人的なかかわりに対して不安をお持ちの方々は、自己の存在について過剰意識をしている可能性があると考えられます。私のような、眼鏡を変えても気づかれないという状況について、存在感がないだけかといえば、外来診療を行っているわけですので、患者およびその家族からすれば、一人の人に注目している状況の中で、その人のメガネが変わっていることに気づけないというのは、そこまで注目しているにもかかわらず、変化に対して鈍感であるという証拠でもあるといえます。

 周りの人が、自分のことを不快に思うに違いないとか、批判的に見ているに違いないといった対人不安からくる自分を周りがネガティブに見ている解釈については、現状としては、ほぼありえないこととなります。よほどの奇抜な存在でない限り、周りはその変化などに気づけないほど、関心がないということになります。

 いかがですか?寂しい思いを感じた方もいるかもしれませんが、一方で、ほっとした方もいるかもしれません。

 世の中は、そこまで自分に注目したり、関心を持ったりしていないということです。一挙手一投足に注目されているわけではないので、ぜひ、のびのびと活動をするとよいのではないかと思います。逆に注目されたい方は、よほどの努力がない限り、周りの目には留まらないことでもありますので、目立ちたい方はしっかり気合を込めていくようにしていただくことをお勧めいたします。

 

 

ReFa Fine Bubble

 本日は久しぶりの愛用品の宣伝をさせていただこうと思います。ReFaと言う会社は美容品のメーカーさんであることはあとで知りましたが、毎週、20km前後のウォーキングをしていると、汗と日焼けとそして、なぜか分からないのですが、砂っぽくなって、ガサガサとなるため、シャワーですっきりさせたくてならないのですが、なかなかすっきりするまでに時間がかかるので、Fine Bubbleのシャワーがあるといいなと思いつつ、フィットネスジムにも展示してあったシャワーヘッドがありましたので、思い切って購入しました。

 まあまあ、いいお値段をしているため、シャワーヘッドにしては…と思ってしまいましたが、実際に使ってみると、ガサガサした感じが漆器に落ちるため、びっくりしました。

 もともとのスタンダードなシャワーにも遣えるため、特殊なマイクロバブルだけではないため、通常の使い方もできます。また、冬になったら試してみたいと思っていますが、バスタブに入れてお湯を追加すると、マイクロバブルのお風呂になるらしいので、寒くなったら試してみようと思います。

 私の場合は、老化防止に近いものがありますが、ケアなの汚れなども取ってくれるようですので、是非美容のためにもお薦めできるものと思います。