ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

お手伝いは、人をダメにする

 お手伝いは、困ったときのサポートとして、善意ある行動としてごまウシもとっさにする事があります。もちろん、ごまウシはそこまで徳を積んでいるわけではないため、気付かないことも多いのですが、世の中には、お手伝いを自分の事はともかく頑張ってやってくれる方も多くおられますよね。

 

 お手伝いをするという事は、とてもすばらしいことではありますが、一方でお手伝いは人をダメにしてしまう可能性というものを内包していることもあります。

 

 お手伝いをしていただくと、とても助かるのですが、お手伝いが日常的にあった場合、そのお手伝いがいつの間にか「当然」と言うことになっていくことがあります。逆にお手伝いがなかった場合に、いつもお手伝いをしてくれる方に対して「なんで今日は助けてくれないの?」と要求に近い感情がわいてしまうことがありますよね。

 ここで分かることは、お手伝いは「恒常的」に行ってはいけない事になります。あくまで、お手伝いは、臨時の助っ人であって、常のサポートではないという事になります。

 また、さらに言えば、恒常的にお手伝いをしてしまうと、お手伝いを受ける側は、「やらなくても、助けてくれる」という感覚になるので、最初は、できなくて苦労をしていて、できるように努力をしていたのに、お手伝いが恒常的に入ることで、できるようになろうとする努力がなくなってしまうことがあります。

 

 このような流れから、認知症や知的障害、発達障害の方々への対応の時のお手伝いについては、特に注意をしておく必要があります。

 残念ながら、能力的に自力では不可能なため、常に助けてあげる必要があるものは、ごまウシは、「お手伝い」と言わずに「支援」と表現を使いますが、必要不可欠なサポートを支援するのであって、できることについては、やむを得ずの時を除けば、基本的にはお手伝いを敢えてしてあげないという事になります。

 例えば、認知症の方で、季節感が障害されて、季節にあった服装ができない方に対して、支援をするのは、季節にあった服を並べておくというところにあるかと思いますが、間違っても、着る順番や着方に対してのお手伝いは、可能な限り行わないことになります。

 能力的にできるのに、着せてあげたり、順番どおりに並べてあげたりして手配をすると、当の本人はとても気持ちよくお着替えはできるのですが、持っているはずの能力を発揮することなく着替えを完了してしまうため、その能力が徐々に退化してしまうこととなります。

 

 お手伝いをやり過ぎてしまうと、そういう点では、お手伝いを受ける側の方の能力を代理で執行してしまい、結果的にはその能力を吸い取ってしまうこととなります。まさに、人をダメにしてしまうこととなります。しかも、そうなってしまうと、お手伝いした内容が恒常的にその方のできない事柄になってしまうため、常時支援を必要としてしまうため、お手伝いをしてあげた側は、これから先もお手伝いをし続けなければ、本人が崩壊してしまうと言うお手伝い必然性が高まってしまうなんて言う事態になります。

 

 お手伝いは、臨時の特別なお助けであり、恒常的なものではないという事を意味していて、恒常的なお手伝いはもはやお手伝いと言わずに「支援」となっているという事には気をつけておく必要がありますね。