本来は、医療とごまウシが専門としている認知症のお話しをこのブログでは記事にすることにしていたのですが、いつの間にか主軸がどちらに行ったやら…なんていう記事が連日続いていますが、たまには…ですね…。
みなさんは、陰徳と言う言葉をご存じでしょうか?
この言葉は、陽徳に対して使われる言葉ですが、陰徳は、みなさん何気なく行っていたりしていますか?
今回のお話しは、「陰徳は認知症になってしまったとしても、その御利益は、返ってくる」というお話をしようと思います。
陽徳という言葉は、明るいことを説くとしているというものではなくて、あからさまに誰も峨々分かるような形で徳とも言える行動をするというものを陽徳というものになります。
徳の行為というものは、電車で席を譲ったり、街中のゴミを拾って待ちを綺麗にしたりするような行動が例としてはあげられますが、これを人に悟ってもらえるような形で行うことが陽徳になります。電車で人に席を譲る行動は、その人に分かる形で徳としての好意を示している物です。もちろんすばらしいの一言に尽きますし、ごまウシにはちょっとね…といった感じで、人のために行うすばらしい行為となります。
しかし、一方で陰徳というものは、誰にも悟られない形で行う徳の行為と言われるもので、街中でゴミを拾ったりする行為は時には周りで誰も見ているわけではなく、誰にも悟られることのないような形で、周りの人に心地のよい環境を提供するという徳の行為になります。
よいことをしようと思って意識的に行う徳の行為は、その結果を分かって欲しいと思う気持ちがあればあるほどどうしても陽徳になっていくものです。しかし、そうではなく、こうした方がいいと思う気持ちから行う、他者が結果的によければ、それでいいと思いで行う行為の場合は、陰徳につながることも多いようです。
相違点ではスピリチュアルな観点からは、陰徳行為は魂レベルを上げる…などと言われていますね。
さて、認知症になると、どうなのかと言えば、見当識障害という行動に対しての誤作動が目立つようになります。その結果として、本人的にはよかれと思って行っている行動が、結果的に、誤っており、結果的にトラブルとなってしまうことがあります。
認知症になって、見当識障害が伴ってしまったときに、徳の行為はどうなるでしょうか?
陽徳については、よかれと思う感覚がぶれ始めるので、行為そのものは決して悪い感じではないのですが、タイミングが悪くなったりするため、他者に対する余計なお世話…になってしまうことがあり、そして制止されると、やはり「やってあげた」感が強いのか激高されてしまうため、介護スタッフからネガティブな印象を持たれてしまうことがあります。
ところが陰徳の場合は、もちろん、見当識障害が強まると、この行動が誤った行動となるわけですが、「陰」ですので、周りが悟ることができないと言うこともあるのですが、見当識障害のため、目立たない形でそっと行う行為が見えてしまうようになるのですが、この場合、誤った行動でありながら、とてもけなげな行動として、介護スタッフには微笑ましいような涙ぐましいような…という気持ちにさせるようにうつるようです。
結論的に申し上げると、陰徳という行動は、決して周りに評価されるような行動ではありませんが、やはり、どんな形であれ、御利益につながるようにごまウシは思います。認知症という大変な状況に陥っても、微笑ましくみてもらえるか、余計なお世話としてみられてしまうか…。もちろん、徳という行為そのものを行っていない自己中心的な日々を過ごされていた方が認知症となってしまった場合には、介護サービスに乗ること自体が難しくなり、孤立化してしまったりすることもあるので、徳を積むことは大切ではありますが、やはり陰徳に励む習慣というのは大切だと思います。