このお話は、チーム医療というものに関わっていると感じることの多いものではありますが、医者のエゴは、その感じ方は、もちろんごまウシのエゴとおぶつかり合うことがあり、ごまウシの判断では偏りがでてしまうかもしれないと思えてしまうところがあります。
この医者のエゴが問題とならないのであれば、ここでわざわざ話題に出すことはありません。エゴという言葉自体がネガティブな言葉でもありますので、エゴ自体がいい方向に向いているわけではないのは明らかだと想像できるのではないかと思います。
以前の記事にコンサルテーションについて触れたことがあるかと思いますが、エゴは、まさにこのコンサルテーションの質の課題にもつながるような事柄となります。
ところで、そもそもエゴとは何でしょうか…?
客観的な記述をするためには、きちんと出典を拾ってくるのが一番かと思いましたので、調べてみました。
コトバンクによりますと、3つの意味合いがあります。一つは他者とは異なる認識という意味でいわゆる自我と言われるもの、二つ目はフロイトの哲学的な用語として「知覚」というもの、三つ目が今回の記事の話題になる、自己中心的な我のことを意味していたりします。
医者のエゴと言われる内容は、医者という仕事を自己の我に任せて行うことを意味しており、診療行為が、患者のためではなくて自分のためという事になってしまう現象です。
テレビの医者関係のドラマには時々出てきますよね。実験的治療を施す医者の姿。自分の実績のために、過剰な治療を行う医者。他の医者の介入を拒み、自分流の診療を行う医者。こんな感じの姿を演出されていることが多いように思います。
専門性の高い大学病院などでの診療では、実験的治療(治験)は正当化されていることがあります(正当化するために、実験的治療を患者自身も同意の上で行っています。治験などはまさにその例になるでしょうか。)了解に基づいたエゴは、患者のためになるのでとても強力な武器になりますが、同意が得られないようなエゴについては、患者への被害につながる可能性があります。
そのような、患者にとって害となるエゴについては、一般病院では時々見かけます(この見かけるということ自体が私のエゴからみえてしまっている場合もあります。)
代表的なものとしては、自分の専門の疾患に対する診療行為へのエネルギーの注ぎ方と、Common Diseaseと言われる、たとえ専門外であっても診療を行わなければならない、一般的疾患(肺炎、尿路感染、手術を要しない腸閉塞など)に対する診療エネルギーの注ぎ方が全く違う医者がいます。
専門疾患については、毎日にきめ細やかに診療してくれるのに対して、一般疾患に対しては、患者を診ずに、検査データだけ参照して、電子カルテ上だけで診療を行ったり、専門治療が終わったあとに発生した合併症などについても、全くほったらかしになっていたりすることがあります。エゴはエゴでも、治療に対してあるいは患者に対して選り好みをしてしまうことががあったりします。
これは明らかに患者にとって不幸なこととなります。
この医者のエゴというものについては、ごまウシの「エゴ」に基づいて、院長に相談をしたことがありますが、院長にもエゴがあり、まさにパンドラの箱のような雰囲気となってしまいました。
本日は愚痴のようになってしまいましたが、医者のエゴ、有効に活用すれば、力強い治療能力を発揮しますが、ヘタすると患者を不幸にする危険なものであるというお話でした。