ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

粘着は、将来を潰す

 お仕事というのは、いつも同じパターンで同じようにこなしていくことが一番楽だと考えられます。いちいち細かく考えなくても、同じパターンなので、勝手に身体が動いていく。AIが導入されると真っ先に人間様がしなくて良い業務になってしまいそうなパターンですね。

 また、同時に、この単純な繰り返しの業務は、業績としては、一定の水準をはじき出すことができると言えます。労働力の節約と安定収益。すばらしいパターンです。

 

 ところで、この単純性。本当に良いのでしょうか?もちろん、この聞き方をしているという事は、「あまり良くない」と言うことを示しているわけですが、デメリットばかりではないと思うところもあるため、完全否定するものではないですが、単純性とともに必要なのが柔軟性でしょう。この柔軟性に伴った変化も合わせることで、発展していくと考えられます。

 変化のない取り組みは、全体的には、その変化がない事への粘着性が生まれてきます。そのため、全体に変化に対する恐怖が表れてくるため、変化を求めようとすると、その変化の動きに対して潰そうという圧力がどこからともなく発生すると考えられます。

 しかし、変化のない業務は、確かに、周囲の状況が変わらなければ、安定した収益、安定した経営状態をもたらすでしょうが、周囲が変化をしたりすれば、途端に下降の一途をたどります。変化がダイナミックであれば、必然的に対策チームなどを作って対策を講じることでしょうが、小さな変化については、粘着性の方が勝ってしまって、気づかないうちに周囲から取り残されて時代遅れとなってしまうことがある。その場合は、将来的な面では業績悪化が避けられず、気づいたときには復活不能な状態になっていることもあるといえます。

 

 粘着性は、不必要なものではありませんが、粘着し続けることは、決して難しいことではありません。この粘着性に逆らって変化を導くことがとても難しいのです。それは、すべて一歩前に出る勇気が必要です。当然一歩前に出れば、以前にも話題に触れましたが、「出る杭」となるわけですから、たたかれます。たたかれても、負けない気合が必要となります。

 この出る杭になるためには、当然従業員一人一人で行えるものではなく、やはり、その他宅パワーに対して強力に抵抗できる立場の人が行わなければなりません。

 これは、経営者の理念になるかもしれませんが、経営者は、世の中の情勢をきめ細やかに収集すること(経済新聞や日常に新聞雑誌などからのニュースを仕入れること)は当然として、同業者の周りの動静も見ておく必要があるでしょう。周囲の同業者よりも上に立とうと考えるのであれば、周りが動き出す前に第一歩を踏み出す必要があります。また情報収集は外の情報収集だけではありません。従業員一人一人の気持ちの変化にもモニターしておく必要がありますよね。そのためには日頃、雑談など、経営者は従業員との垣根が小さい方が良いと言えそうです。ただ、垣根が小さすぎると、労使の関係で言う業務命令が浸透しないこともありますので、垣根のあるところないところと上手に調整することが大切でしょう。一歩前に踏み出すためには、従業員の抵抗もあるでしょう。ただ、日頃垣根を小さくしている部分があれば、その抵抗は共感によって小さくすることもできるでしょう。もちろん一歩に対するビジョンをプレゼンテーションできることも大切だと考えられます。

 

 粘着性は、これに支配されていると、将来はやはり潰れてしまうと考えられます。そのためには、情報の先端を見据えた上での一歩を踏み出すことが大切です。その一歩も粘着性のためにたくさんの抵抗が発生するでしょうから、一歩ではなく、二歩も散歩も歩みを大きく力強くとる必要があります。そして、周りよりも少しでも早く抜き出れば、一歩リードすることで将来有利に働くでしょう。

 この一歩に周囲への理解が伴うようにしっかりプレゼンテーションをし、日頃の人間味のある付き合いの中で、共感を持って突き進めば、柔軟性が生まれてくるものと考えられます。

 奇抜だと相手にされない経営者から、先賢の目があると羨望のまなざしで見られる経営者へ時代は、変わっていくことでしょう。

 

 

 

 

介護抵抗が発生する原因 ---2---

 昨日は、介護抵抗について利用者側の問題を検討してきました。次は、介護者側の原因というものを考えて行きながら総括してみましょう。

 

3.介護者が原因となる場合

 これは介護者が一番注意をしないといけないことを列挙することとなりますが、介護を受ける側の心情を加味しながら対応しないと介護者が原因となった介護抵抗につながることになります。モラル的に問題のある度合いの高いものから触れていきます。

 まずは、態度が横柄であったり、粗暴であったりする場合。この場合はどんな場合であっても、みなが不愉快になりますよね。介護を受ける側も人間ですので、物品のような扱いをされては、不愉快です。この横柄な態度や粗暴な態度は、諸事情はあるでしょうが、先ずは介護という仕事の根本を理解していない場合、人をお世話をする事が好きではないのに仕事をしている、気持ちにゆとりがなくてイライラしているなどそれ以外にも様々な理由が考えられます。介護のお仕事は、本来ならば、やはり、人のお世話をすることが好きな方にしていただきたいところです。看護も医師の仕事も同じですね。人を相手とするお仕事においては、人へのお世話をすることが楽しいと感じたりやりがいと感じたりすることで、真心こもったケアができるものと考えられます。それがイライラとなったり、横柄であったり、粗暴で会ったりすると言うことは、あり得ないことですよね。ただ、現実は、お仕事を好みで選べない実情もあるでしょうから、「私はちょっと…人のお世話は苦手…」という方もおられるでしょう。しかし、それは、お仕事をしている限り正当な理由ではありません。そう、ボランティアではなく、お仕事として報酬を受けているわけですからね。ボランティアであれば、人のお世話が苦手ならば、しなければ良いわけですから。あとは、気持ちのゆとりの度合いによりイライラが発生してしまうことがありますよね。イライラは誰しもお仕事では存在すると思います。ただ、これを弱者である、介護を受ける方へぶつけてはいけませんよね。気持ちへのゆとりを導くための技術も人をお世話をするお仕事においては必要とされています。

 次に、そのような意図的なイライラや横柄さが存在しないにもかかわらず、なぜか介護抵抗に導いてしまう場合です。多くの場合、自覚していないことが多いことが重要です。これは、介護を受ける側の理解力と理解に対しての障害となっている事柄の把握の不足から生じるものです。ここまで触れると想像ができるかと思いますが、せっかく丁寧に丁重に、心をこめてお世話をしようとしているのに、相手に理解が及んでいないために、誤解を招いて攻撃をされてしまうことがあります。通常ならば、抵抗されないだろうと思っていても、理解力の低下があれば、誤解されてしまうでしょうし、さらには、理解ができていなくても、なんとなくの場の空気で応じてくれる場合でも、それが聴覚、視覚、嗅覚などの五感の低下があった場合、理解につながらない場合があります。介護を受ける方の理解や理解できるための感覚の能力を理解しておく必要があります。

 最後に、タイミングというものがあるでしょう。タイミングは、実際のところ現在の介護の世界では、施設側の運営のタイミングでケアは行われている者と考えることができます。利用者や入所差のタイミングで行う施設は、だいぶ少ないでしょう。当然これには業務上の効率化が必要になります。現在の医療制度や介護制度では、スタッフの配置に基準というのが設けられています。もちろんこの基準は最低人数の基準ですが、実情は、採算面でも人員面でもどうしても最低ラインを確保する程度にとどまっています。そのため、介護スタッフはシステマティックな動きをしなければ、すべてが残業につながり、すべてが過剰労働につながります。過剰労働につながると、施設運営者側には、労働基準監督署からの指導という恐ろしいものが待ち受けていることとなります。もちろん人件費も残業代を潤沢に用意できるところは少ないでしょう。このため、介護を受ける側のタイミングでお世話を受けることができる施設というのはほとんどないのではないかと思われます。

 

4.まとめ ---介護抵抗は共同作業により解消---

 移乗のことから、介護抵抗は、利用者においても介護者においても双方の原因があるという事がわかります。ここまで読み進まれた方は多くの点において「当たり前」と感じている部分が多いと思います。解消方法は、当然、すべての原因を除去することですが、できますでしょうか?現場の方からは、「できるわけがない」と言うお答えをもらいそうです。その通りです。とても難しいのです。私たち精神科医認知症診療と言えば、介護抵抗を制御することに専らとしているのも確かです。(私たちのように診断に特化しているのはむしろ少数派です)

 現実的なところからは、実際の現場では、妥協と譲歩の合わせ技でなんとか乗り越えようとしているものと考えられます。このときに、必要とされる発想が、「共同作業」というものです。「利用者にとって心地よい生活環境」「介護者にとって気持ちよく心をこめたヘルプを行うための条件」はお互いの共同作業であるという事なのです。

 介護者側は、介護を受ける側の心境や理解度をうまくくみ取ることが重要となり、利用者は、介護者に対する気持ちの受け止めや配慮が必要となります。そのバランスによって、介護抵抗は解消するものとなります。介護者は、受ける側の羞恥心や自尊心に配慮をし、その上で理解力と理解の障害となっているものを把握した上で、タイミングを図りケアをする。受ける側は、その時の介護者の言葉などを通して、妥協や譲歩をして、受けるというものです。

 …なにか、違和感を感じたりしませんでしたか?

 介護者の理念は異論はないでしょうが、介護を受ける側の取り組みは、現実的なお話にはなっていないと言えます。介護という世界では、利用者側からの配慮というのがあまり期待できないのを前提に考えて行く必要があります。そのため、あくまで介護者側の理念は基本中の基本の最低限のステップという事になります。このステップ自体がきちんとできているかどうかを振り返る必要があります。これができてこそ、さらなるステップである、利用者側の妥協や譲歩を求めないで、スムーズな介護を行えるかどうかと言うところになります。この最後のステップは、とてもとても難しいと思いますが、とてもとても大切なことであり、介護を好きで取り組む型に取ってみると究極のテーマでしょう。それが、介護を受ける方の人を「人として理解をして向き合えるか…」です。これだできていた上でのケアでしたら、介護者側は、ため口対応であろうが、多少豪快な対応であろうが、介護を受ける方は、気持ちよくケアを受ける形となります。ケアの真髄というのはここにあるのではないかと思います。

 

 

島製作所 サニーウォーカーAW-III チェックネイビー
 

 

介護抵抗が発生する原因 ---1---

 最近では、介護技術も向上し、介護の世界では、介護抵抗についての一定の対応方法などが見出されているかと思われます。しかしながら、未だに、十分な理解がもたらされていない施設も実際あるようですので、改めて、介護抵抗についておおざっぱではありますが見直してみたいと思います。

 

1.介護抵抗とは。

 もちろん、介護を行う施設において利用者(入所者)が介護を施す職員に対して抵抗をするという事を介護抵抗と行っています。この介護抵抗は、何も理由がなくて発生しているわけではありません。食事の介助や排泄の介助、トランスファー(移乗など)における抵抗など、様々な介護シーンにおいて発生しています。介護という名前はついていますが、医療機関においても、点滴に対して自己抜去をする。酸素マスクの剥ぎ取り、その他傷などの処置に対するケアを激しく抵抗して逆らうことなどがあります。リハビリテーションに対する拒絶もこの中に含まれるでしょう。

 介護や看護など、人にサポートを施しているという行為に対して、なぜ、このような抵抗というものが発生しているかという事について、既に、様々な理由や原因が分かってきてはいますが、改めて見直してみることが重要と考えられます。分かっていても、「忘れている」と言うことがありますからね。ある意味、これから書いていくことについては、当然と言えば当然という事も含まれていますが、それが当然として現場で認識されているかどうかを改めて見直してみる機会となればと思います。

 

2.利用者(入所者・患者)が原因となる介護抵抗

 介護を受ける側が原因となる場合の因子については、とても恣意的なものから意図はないものまで様々です。恣意的な意味合いの強いものから、うすい方向へ原因を並べながら検討してみましょう。

 まずは、そもそも、そのケアそのものが嫌いな場合。代表的な理由としては、羞恥心ですね。排泄介助などは、自分がされた場合のことを想像していただくと、わかりやすいのですが、「おしりをひんむかれて、便座に座らされ、”はい、ここでしてね”と見守られる」この状況で用が足せるでしょうか?サポーター側の気持ちは、置いておいて、介護される側だけの気持ちで考えると、とても耐えがたいものとなります。そのため、何が何でもそのような状況を避けようとします。この発展系としては、病院で、転倒のリスクがあるため、トイレに行くときにはナースコールをしてくださいと行ってもナースコールをせずにトイレに行く方が一例となるでしょう。とにかく、用を足すことを報告したりするなどはとても恥ずかしいと感じることなのです。なので、こっそりです。職場でみんなの前で「これからトイレ行ってくるね!」なんて元気な声で言えることはまずないでしょう。(たまにおられますが…。おそらく別に理由があるからですが。)介護の場では、特に、サポーターの目の前で用を足すことをしないといけません。できますか?理解していてもできませんよね。

 次に、そもそも、人に言われたことに従うのがとても苦手な方。指示されると反対のことをしたくなるような、悪意がはらんでしまう場合もあるかもしれませんが、自尊心の非常に高い方はやはり、自分のことは自分でしたいと思うでしょう。いやな物はいやだという態度を明白に示されることにより、介護抵抗は発生します。

 さて、今度は、このような意図的なことでは内部分で拒絶が発生する場合を考えてみましょう。それは、介護施設などでは日常茶飯事の現症です。これがまさに「認知症」という疾患が持っている特性によるものです。認知症は、日常生活技能が本来獲得したものを失う現象(以前説明を書いたかと思います)ですので、この障害によって、介護を受けること自体に理解が及んでいないことがあります。また、認知機能障害の中には、加齢現象の一部も含まれていますが、自制心が障害されている場合があります。その場合は妥協して我慢することもできなくなります。そのため、先ずは介護を受ける側として、何をされるかが理解されないため、介護者がしてくる行動が分からず、恐怖を感じている場合もあるでしょう。その場合は必死に抵抗するはずです。「襲われる」「ころされる」なんていう恐怖感を抱いている場合だってあり得ます。この夜に理解不充分な場合には抵抗を生じるのですが、さらに、自制心が低下していれば、攻撃に転じられることもあります。いわゆる仕返しのようなものですね。理解が不充分であればあるほど報復という形のものが発生する可能性があります。

 最後に理解を阻害する因子が発生している場合に誤解を招いてしまって抵抗してしまう場合があります。年齢とともに、視覚、聴覚、嗅覚などは著しく低下していきます。そうすると、感覚が低下している中で、介護などのケアが施される場合、理解が妨害されていることがあります。そうするととんでもない誤解を招いてしまい、先ほどのように恐怖などを感じてしまうこととなり、抵抗されることにつながることがあります。さらには、意識状態も混濁している場合もあるでしょう。この意識混濁状態は、身体の病気などが合併しているときによく発生するせん妄という状態は代表的です。病院に入院した方の介護抵抗のかなりの割合にこのせん妄という症状が発生していることがあります。

 

 

 

人はそこまで自分に興味はない

 「自分のことを周りはどのように見ているだろう?」…これは多くの人がもつ気持ちで特に自分の責任で物事を多くの人の前で披露したりするときなどに感じることですが、それが多くの人の前に限らず、日常的なお仕事や生活の場面で意識してしまっていることがあります。これを、「過剰意識」という言葉で言われてしまいますが、一般的に言われている「自意識過剰」とはちょっと違いますよね。

 自意識過剰は自分の主張や権利を強く求めてしまう傾向のことを意味してしまい、どちらか言えば、「世の中は自分を中心に回っている」と行った気持ちの中から湧いているものと言えます。そのため、自分にとって都合の悪いことについては、周りがいけないとか、周りの解釈が間違っていると行ったような解釈を行う傾向にあり、それを周囲に強いる傾向が強く認められます。

 一方で過剰意識は、土台は、自分の振るまいが周りに批判や迷惑になるのではないかという不安から生じている、防衛反応で過敏化した完成のことを意味しており、そのような場合には、必ず、周りが自分のことを嫌悪感を持ってみていると言った感触から、自分が行動することにより周りは困ってしまうだろうといった解釈に至ったりすることが専らと考えられます。このような考え方をしてしまう場合は、行動がどうしても控えめになってしまい、とにかく、周りのボソボソとした会話が気になってしまうものです。「あの人は、もしかしたら、今私がした作業に対して嫌悪感を抱いたりしていないだろうか…。」と行った不安です。この不安が強まると、「上司は、私がやった作業のできの悪さにがっかりしているはずだ」などと確信するようになり、上司の方が、部下に対して、「○○をまとめておいてくれ」なんて指示を出しても、「できません」と言われたり、と多も不安そうな表情で指示を受けたりするようになります。

 自意識過剰と過剰意識との区別は、強気か弱気という点で区別がつきます。強気というのは、「自分が正しい」という自信から生じているもののため、意見が食い違ったりすれば、あからさまに、批判をしてきます。一方で、弱気であれば、何も言わなくても引っ込んでしまうし、求めてもいないのに謝罪してきたりします。ある意味、自意識過剰と過剰意識を誤解して向き合ってしまうと正反対の結果をもたらすこととなります。その点では注意してみる必要があるかと思います。

 

 さて、自意識過剰も過剰意識ももちろん、「過剰」という言葉がついているとおり、周囲のひとが自分のことに注目をしているという誤解をしていることは共通していると言えます。この誤解を解くことがこの方々に適切な周囲への気遣いや周囲に対する安心感などを勝ち取るための秘訣となると考えられます。

 まずは、「周りはそこまで自分に興味や関心がないこと」を理解してもらう必要があります。この場合は、反対の立場を見てみると、非常にわかりやすいと言えます。以下のような問いをすると答えは明快です。

「あなたは、どれくらい周りの人の行動を観察していますか?」

 例えば、過剰意識例として、「あの人は私に対して意地悪をしている」と主張する方に、「あの人」のことをどれくらい観察しているかという事を質問すると、実際は、ほとんど答えられないくらいしか観察できていなかったりします。ここで明確な矛盾が生じてきます。まともに観察もしていないのに、なぜ意地悪をしてきていると確信をしているのでしょう?もしかしたら、「あの人」はあなたのことをあまり考慮とか配慮することなく、思ったままの行動をしているだけではないでしょうか?その行動が、あなたの考えや価値観と大きく違っている場合、自分の考え方や方向性を妨害されたみたいな感覚に襲われる可能性があります。結論としては、「あの人」はあなたにそれほど興味、関心がなく、価値観の違いが、あなたの不快感につながっているだけに過ぎません」…と言うことになります。

 一方、「私はいつもへまばかりしているから、自分だけたくさん叱られてしまっています。」と嘆いている場合はどうでしょう。これは逆に、同じ仲間が上司にどれくらい叱られたり褒められたりしているかをどれくらい観察しているかを確認すれば明確でしょう。自分だけが叱られているという表現が現実的ではなく、他の方も叱られている姿を何気なく目にしていることに気づくはずです。そして、それに対して自分があまり気にしていないことにスルーしてしまっていることに気づくことになります。「自分だけが叱られているわけではない」という結論になるわけです。

 

 人はそこまで自分に興味がない

 

 自意識過剰の方はがっかりするでしょう。一方で過剰意識の方はホッとすることでしょう

 

 職場のメンタルヘルス相談を行っていると、周りの人が自分のことをどれほど注目しているのかが気になりすぎて、どちらにしても過剰になってしまっている方が多く見受けられます。対人トラブルになったり、業績不振に陥ったり、意外に業務に支障を来すこともあり、職場の空気がよどんでしまうこともあります。

 世の中、周りの人に気を配ることは大切ですが、それは、お互い、周りにさほど興味や関心を持てないために、生じてしまう誤解を避けるためにあると言うことを、日頃ご指導いただくと、過剰な周囲への意識が軽減し、いい意味での気遣いが反対に生まれてくるのではないでしょうか…。

 

 

 

 

 

 

 

心のカーテンの開け閉め

 先日、夕方に会議を行っていました。しばらくスライドを使った各担当者のプレゼンテーションが続いたため、カーテンを閉めて、部屋を暗くして行われていました。大腿1時間ほど経過したところで、最後のしめの言葉として、長に最後のお話をしていただいたわけですが。まず一言、「このカーテンは開けられないか?まず開けなさい」と言うところからはじまり、一斉にカーテンを開けると、そこには、夕日に照らされた建物と、その背後に透き通った青空が広がっていました。

 長は「このようにカーテンを開けると、場が変わるだろう。」というお話で締めくくられました。それまでの会議の内容は、とてつもなく厳しいくらいお話であっただけに、この夕日と青空は、とても救われた気持ちになり、重苦しい空気を排除して、会議は終了しました。

 

 会議室には、外の光を完全にシャットアウトするカーテンとレースのカーテンとあります。そして、電動でさっと開閉できるものです。スライドを上映するためには確かに暗幕であるカーテンが必要。しかし、スライド上映が終われば、もうそのカーテンは必要ありません。当然と言えば当然のことですが、状況によってカーテンは開け閉めする。

 この会議では、物理的なカーテンの存在ではなく、「心のカーテン」の存在を意識することができました。

 

 誰しもいつも気持ちが晴れやかでいられるわけはありません。落ち込むことも、悲しむこともあるでしょうし、イライラなどもあるでしょう。しかしながら、いつまでも、その気持ちを持ち続けることは、必ずしも必要ではないと考えられます。神経学的には、誰しもが強弱はありますが気持ちにおいても粘着的にこだわる傾向が存在します。そのこともあり、意識しなければ、気持ちの切り替えは難しいときがあります。ここで、心のカーテンを思い浮かべると良いのかもしれません。イライラをしたりしているときは、おそらく、窓から強い日差しが室内に入り込んでいるはずです。そんなときには当然カーテンを閉めるでしょう。そして、室内ではスライドをしずかに上映する必要があるかもしれません。そんなときには、カーテンはカーテンでも厚手のカーテンを閉めると良いと思います。一方で、暗く沈んで落ち込んでいる時には、心のカーテンが閉められたままで、室内が暗くなっている状況が想定できるでしょうから、カーテンを開けることをすると、とても心地の良い光が室内に充満します。

 

 心のカーテン、誰でも、持っているものでしょう。守るときは閉める、解放するときには開ける。この切り替えを意識してみましょう。きっと、能率が上がるはずです。

 今回、会議の長のとても神がかりの〆から参加者みなが、心が晴れ渡った瞬間を感じることができました。会社の会議などで、厳しい報告や暗い報告をしたあとには、是非責任者の方、部署の長の方は、カーテンを開けてあげて、明かりを入れるようなはからいをして、いつまでも、意気消沈した状態に職員を置いたままにしておかないようにしておくとお仕事の効率は回復し、上がっていくことでしょう。

 

 

 

アンケート活用のお薦め

 昨日書きましたお話の発展系にはなりますが、私たち日本人の特性は、「出る杭は打たれる」を骨の髄まで染み渡ったキャラクターをベースとして存在していると言うことを踏まえると、ひとの力を借りるときには、役に立つのではないかと考えられます。

 

1.匿名性の効果

 匿名として真っ先にひらめくことは…私がひらめくことですが…ネットの世界です。もちろん厳密には匿名ではありません。私もごまウシなどと、おかしな名前を名乗っておりますが、それでも匿名ではありません。しかし、通常の調査程度では匿名性は担保されているのがネットの世界です。それが、最近の報道では、悪い方向に向いていることが注目されています。これが、「炎上」であったり、「誹謗・中傷」のつぶやきや様々な投稿で、通常の調査では個人特定されない事を悪用して、好き放題ブレーキを外して発言している姿となります。この姿を見ると、外国の人が言っているような日本人の姿とはだいぶ違いますよね。「クールでシャイなジャパニーズは、どこへいったかしら?」などと言われてしまいそうです。

 匿名になると、思ったことがためらいなく言えるようになってしまうのは、匿名によって、自分自身が「出る杭」にならないことともに、自分個人として他者に目立つことで迷惑をかけたりすることにはならないといった事情からでしょう。報道されている匿名性の効果は、ある意味では悪用した場合の意味合いになりますが、良い意味で言えば、遠慮して言えなかった貴重な意見が、匿名により自然と出せてしまうことにあると言えます。事業を展開したり、会社でプランについて議論を深めたりする時には、この匿名性をうまく活用できると社員一人一人の力を総動員し、企業パワーの増大につながるのではないかと考えられます。

 

2.匿名性の活用

 匿名性の効果を考えると、この効果をやはり、事業展開には是非活用したいものです。その時に、最も役に立つと考えられるものが、アンケートではないかと思います。ただ、アンケートは不特定多数を対象としたものとはこの場合では意味合いはだいぶ異なります。事業展開をするに当たってアイデア開拓をする場合、例えばその部署にアイデアボックスを用意をして、部署の社員にオープンクエスチョンで意見を求めておくと案がひらめいたときに気楽に投函できるようになります。アイデアボックスを開けて、そのアイデアを集めて、議論を進めていったりすると、革新的な事業展開ができる期待が高まるでしょう。

 

3.具体例

 アンケートなどの取り組みで案を集める具体的な事例としては、ブレーンストーミングKJ法の組み合わせでしょう。ブレーンストーミングおよびKJ法については、ここでは詳しく語らないこととしますが、おおざっぱに言えば、ブレーンストーミングとしてあるテーマについて、自由に意見を出してもらうために、批判的、非建設的な意見に対するコメントを禁止した上で、順番に意見を求めていく方法で、KJ法は、さらにその意見の出し方を紙に1行程度でどんどん書いていき、テーブルの真ん中にみんなで投げ込んでしまうことをします。そして、ある程度投げ込まれたものにボリュームが出てきたところで、類似意見ごとに仕分けしながら、出てきた案の総括図を作るような形でまとめ上げる作業をみんなで行う者です。

 意見を投げ込む作業をしている時点で、匿名性が担保され、そのため、思ったままの意見がそのまま、場に投じることができるようになるというものです。さらに、出てきた意見を整理整頓することにより、総括させることができ、最後には一つのビジョンという形のテーマに仕立て上げることが可能となります。

 

 以上のように、アンケートという手法の匿名性を活用できれば、新しいビジョンや開発などが気遣いや遠慮等の壁を取っ払って進めることができると言えます。

 

 

 

講演会のあとで質問ができる人はいますか?

 昨年は、とても少なかったのですが、私は時々、大勢の方の前で講演を行っております。人前でおはなしすることは、もともとの私の感覚では全く想定できないものですが、おおよそ10年前後の経験を経て、さほど緊張というものを感じなくなりました。地域で講師として招いていただけるようになり、感謝しているところです。さすがに、全国を巡るまでには、「知名度」が微々たるものですね。将来、読んでもらえるかしら…読んでください!!ど〜ぞ!!ど〜〜ぞ!!…独り言はこれくらいにして…。

 講演会では、演者がよっぽで時間延長をしない限り、主催者さんは質問タイムを必ず設けていただけます。演者としては、すぐ答えられるだろうかどうか…不安とドキドキとともに、お話ししたことがどれくらい聞いていただける方々に響いているかを知るのには、絶好の機会となります。

 私のブログを読んでいただいている方々の中で(…現時点では、アクセス50件程度ですが…)講演会の終わりの質問タイムに、挙手した上で、マイクを用いて質問をされたことがある方はどれほどいらっしゃるでしょうか?ほとんど折られないのではないでしょうか?

 私の経験では、聞いていただける方々の人数が多ければ多いほど質問をされる方が減少します。100人を超えると,ほぼゼロ…となってしまいます。もちろん、私も学会などで大人数の参加の講演に参加することがありますが、講演内容で質問したいことが発生しても、挙手することにかなりためらいを感じてしまいます。ただ、私の師匠となる方に、一講演一質問という原則で講演には参加することとご指導いただいたこともあり、頑張って、ためらいを振り切って質問をするようにしています。

 私の師匠は、質問については、以下のようなことを言われて必要性を説かれます。

 「講演をする人は、その筋の専門家であり、他の人が持たない、とてもたくさんの知識を持っていて、そんな貴重な情報を持った方がせっかくお話ししていただけるのだから、その方の知識をできる限り盗み取らないといけないともったいない。国際学会などでは、講演の途中でも、ヤジのように質問が飛び交うくらい積極的にその演者から知識を盗み取ろうとみんな必死だ。どんどん質問して、演者の知識を盗んでしまいなさい。」

 とても分かるお話なのですが、なのにためらいますよね。

 実は、これは日本人の風土と言ったら良いほどの特性なのです。「自分が目立ったら、周りに迷惑だと思う。」「目立ったら、みっともない。不愉快にさせる」なんてみなさん考えたりしませんか?この考え方が世襲的に受け継がれて、日本人の奥深くに存在していると考えられます。まさに「出る杭は打たれる」なのです。

 グローバリゼーションの今の時代、日本人の特性を外国の人たちが、指摘するように、イエスマンであったり、穏やかな人たちととられたり。いい意味でも悪い意味でも静かな民族と言われています。

 しかし、師匠が言われるとおり、質問することを控えてしまうと確かにもったいない。そういう点では日本人の文化は自己研鑽には、マイナスに働いているかもしれません。

 ただ、一方で、講演会の途中で質問が飛び交ったりすると、演者にとってみると、ペースがすぐ乱れてしまう上に、聞かれる方々からすると、妨害されている感じも目立つでしょう。もちろん、質問をきっかけとしてディスカッションが展開され、会場がそれにのめり込むなんて言うこともありますが。

 このように、私が普段行っている講演会では、やはり質問する方は、ほとんどおられません。順調にお話が終わるのは有り難いのですが、聞いていただけたかどうかが分からないというのがあります。そこで、私は講演会の質問タイムが終わったあとも、しばらく会場を去らずに、ゴソゴソと片付ける振りをして居座るようにしています。そうすると、こそっと現れて質問してくださる方が現れます。講演をして一番うれしい瞬間です。もちろん、お答えする事がスムーズに行かない難しいことを聞かれる方もおられますが、興味を持って聞いてくれたことがはっきりわかりますし、みんなが居眠りしてしまっていたわけではないというのが分かるのでうれしいことです。

 

 結局何が言いたかったと言えば、私たち日本で生活をしている日本人の文化では、やはり「出る杭は打たれる」という考えは、絶大であり、どれだけ出た方が良い場合でも出られず、こっそりしかできません。この特徴は、社会人のほぼ普遍的な真理であることをふまえると、例えば、会社などのミーティングなどで公衆の面前で意見を求めたとしても、質問が出ることもなければ、ましてや主催者の提案に対して異議を唱える方が現れることは極めてまれなのです。商品開発や新たな事業展開を行っていく場合に、意見をたくさん集めて作り上げたいと考える場合、できる限り、意見は目立たないように聞き取れるような環境設定が重要ではないかと思われます。私の書いているブログを読まれている事業展開を模索している方に、従業員の多くから率直な意見を聞くための一つのコツとなればと思います。

 

 はて…どれくらい、そのような方がいらっしゃるでしょうか…