投稿する日は平日ですが、この記事を書いているときは日曜日です。今日はなぜか、今までにしたことのないことを…っていう感じで奮起して歩き回りました。スマートフォンで確認すると驚きの歩行距離となっていました。
決して早歩きや大股歩きをしていたわけではありませんが、だらだらあの歩きなので平均歩幅74cm…短いかも…。そして、1.4%傾いた歩き…でも、20kmも歩きました!すごいでしょ!!
…と言う報告ではありますが、一体何をしていたかと言いますと、このところ、日頃の出来事で、心の中で処理をすることの難しいことも多かったので(具体的には伏せさせていただきます)、浄化できないものかと思い、神々の元へお邪魔させていただき、しっかりとお祈りをさせていただくことをしてみました。そして、その証というものを授かることをして回りました。
硬い表現を重ねてみましたが、今流行になりつつある、御朱印巡りをさせていただきました。今の時期は、特別なイベントがあるわけでもないため、今回訪問させていただいたところは、神社に限定しましたが、人はまばらで、自然の空気を思いっきり吸うことができ、それだけでもとても大きなリフレッシュとなりました。もちろん、この御朱印巡りは、御朱印が目的ではなく、お参りすることが目的ですので、訪問させていただいた神社の中には、社務所がなく御朱印をいただくことのできなかったところも複数ありますが、とにかく、巡りに巡りました。御朱印巡りについては、間違っても、マスコミなどテレビの旅行番組などでテーマとして報道されないことを心より祈っております。神聖な場所に人が集まりすぎるのは、やはり、コロナに限らず、落ち着けなくなります。人の集まらない静けさこそが大切と思います。
本日訪問させていただいた神社は、岐阜市にある金神社という神社です。この神社をスタートに複数の神社を訪問させていただきましたが、金神社の名前を挙げるときには、他に二つの神社の名前を挙げる必要があります。実は、金神社は、母親的存在と言われていて、父親的存在として伊奈波神社、そして子供としての存在が粕森神社とがあります。三社巡りといわれ、この3つの社を丁寧にお参りすることが今回の主の目的となりました。
コロナの影響が、この神社達にも波及していることが訪問して分かりました。まずは、手を清めるお水の場に柄杓はなく、直接見ずにしたたりを手に取るような形となっていました。そして随所にソーシャルディスタンスの文字が…。ここまでデリケートになっているんだなと改めて感じるところでした。しかし、お参りをしていくうちになんとも言えない静寂に包まれ、無の境地になったように、もちろん錯覚ではありますが、感じることができました。
金神社は、岐阜の中心部にあるため、静寂はほんの一部分ですが、それでもとても贅沢な静寂を感じることができました。
写真のちょっとだけあるこんもりとした森。この森の中はとてもしずかでした。
そして…社務所にて…
神々しい極まりないゴールデン御朱印帳を授かりました。(○欲のお願いも引き受けて抱けるようです。)そして、いただきました。
きちんと神主さんの手書きによる御朱印でした。初めての御朱印ですが、神々しい気持ちになり授かることができました。
御朱印巡りをしていく中で、ハッと気づくと、日頃の鬱積した、処理しきれないこころのわだかまりは、静穏化され、こころはすがすがしい状態に導いてもらえたように感じます。
神社には、小さな森があります。木が1本だけのこともありますが、とにかく緑に包まれた場所があります。公園の樹木とは異なる不思議な感覚になります。もちろん、「神社」という位置に対する心理的影響はあるのは確かですが、影響があっても、とても心を静められ、落ち着くことができます。現代社会に限らず、喧噪たる社会の中で生活している私たちにとって、とても重要な癒やしの場として感じます。
結論としては、とても宗教的な場所を舞台とした今回のお話ではありますが、やはり、現代社会においては、静寂な場所というのは、とても大切だと思います。