ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。

敬意を以て受け入れる加齢ともなった認知機能低下

 認知症と加齢に伴った認知機能低下は、一定の水準で違いがあります。認知症であれ、加齢現象であり、現役世代から見ると、様々な人生経験をして現在に至っている訳なので、大切に受容してあげる必要があると思います。ただし、私が人生の先輩のことを尊敬の念で見るべきという主張に対して、その人生の先輩から「尊敬できない人生を歩んできた人たちにまで尊敬は必要ない。村長はしてもらってもいいが…。」などとアドバイスをいただいたことがあります。敬意と言う言葉は、尊さまでは含まれていないので今回のタイトルとしましたが、確かに、尊敬だけでは片付けられないお話もあるかもしれません(身内であればなおさらでしょう)。

 ただ、認知症であれ加齢現象であれ、今までの人生経験で深めたり高めたりしてきた技術を失ってしまう現象であるため、とても残念な現象であることには違いはないと言えます。どんなに尊敬できない人生を歩んでこられたにしても、現役世代よりも長く生きてきたことに対する畏怖の念は持ち続けていきたいものです。

 医療現場においては、やはり治療を優先してしまうため、高齢者の適応性の悪さについては、「本音」としては、かなり迷惑がられてしまっているところがあります。この迷惑がられている気持ちが反映されてしまっているのが、看護記録にはどうしても多くなりますが、それ以外の医師記録も含めて、診断もされていないのに「認知症あり」と記載され、それを理由に豪快な身体抑制につながってしまっていることがあります。

 身体抑制を導いてしまう行動パターンは、高齢者のいくつかの実情が影響していることが多々あります。今回はこの点について、認知症でない場合においての身体拘束について触れてみたいと思います。

 年齢を増すごとにどうしても、とっさの判断というのは鈍りがちとなります。これは、自動車の運転におけるブレーキとアクセルの踏み間違えが結果として事故につながる確率で証明できると思います。ブレーキとアクセルを踏み間違える経験については、年代層を問わずに、ないわけではないと思います。私も一瞬ヒヤッとする経験はあります。しかし、これが事故につながったかと言えば、ほとんどの方は、冷や汗程度で済ませているはずです。

 踏み間違えの原因としては、「とても急いでいた」「助手席の人としゃべりながらだった」や「考えごとをしていた」など集中力や注意力を低下させてしまっている状況で発生していると考えられます。しかし、その間違いで自動車が不意な動きをした際、とっさに間違いに気づくものです。アクセルをブレーキと間違えた場合には、自動車が微動だにしないという事で、瞬間的には「??」であっても、それが一瞬にしてブレーキをふんでいたことに気づくでしょう。一方で逆にブレーキをアクセルと間違えた場合、不意に動き出す、あるいは、エンジンがうなり出すと言ったびっくりさせられる結果となりますが、やはり、一瞬にして間違いに気づき、自動車が前に出てしまうにしても、事故になる前にブレーキに足が行くと思います。

 これに対し、ブレーキとアクセルの踏み間違いの時には、突然動き出した自動車に対して、自分が誤りを犯しているという事に気づくまでにとても長い時間を要してしまい、アクセルに置いてしまった足が動かせないどころか、アクセルという自覚に至らないため、ブレーキと確信してさらに踏み込みさらに加速をするという悪循環となります。

 言い換えると、びっくりするようなことや不慣れな状況になると冷静さを失い、頭の中が真っ白になってしまう現象と言えましょう。この環境適応性の悪さが加齢現象の一つです。

 この環境適応性の悪さが、入院という非日常的な環境において行動判断の誤りをもたらすこととなります。特に夜中など、意識的には眠りについているような状況の時に、まどろんだまま点滴ルートを抜いてしまったり、無理な姿勢でベッドから下りようとしてしまったり、トイレが分からなくなったりと言った行動につながることがあります。確かに生活機能障害となるので「認知症あり」という文言につながりやすいのですが、高齢者の適応性の悪さについて理解をしていれば、「環境適応性の悪さのために冷静さを失って頭の中が真っ白になっている」という理解に到達できるため、適切なトイレ誘導や、点滴などについては、その都度の丁寧な説明、ベッドから起き上がる必要があるときにはナースコールをするなどのアドバイスにつながると考えられます。頭が真っ白という状態ですので、くどく丁寧に説明する必要がありますが、環境適応性のお手伝いを敬意を以て対応すれば、理解につながります。

 次にあるのが、歳をとると避けられない「忘れ」現象です。ただでさえ、環境の適応性の低下がある中で、不慣れな説明を一気にされると、さすがに頭に入りません。普段したことのない床上安静を求められ、さらに必要な時にはナースコールと指示された場合に、ナースコールをせずにトイレなどに行こうとされる姿を頻繁に見かけることでしょう。その場合にナースコールについて忘れてしまっていることは日常的で、これを以て「認知症あり」はやはりかわいそうです。歳をとれば忘れっぽくなる。加えて環境適応性が悪いため、安静が求められているにもかかわらず、「看護師さんに迷惑をかけたくない」と思って安静ルールを破ってコールをする事なく動いてしまったり…。長年の人生を歩まれた方ですので、プライドとしては自分のことは自分でこなしたいと思ったりすることもあります。忘れていることについても、なかなか認めたくないところもあるでしょう。「認知症あり」扱いもとてもかわいそうなものです。専門医が適切に精査をした上でない限り、安易に「認知症あり」扱いはしないことが長年の人生に対する敬意を払うことにつながるのではないかと思います。

 

 結論としては、年を重ねるにつれて、人生についての深みは高まりますが、環境適応性などの能力低下が避けられません。その点を安易に「認知症あり」とするのではなく、人生の深みに敬意を払いながら、加齢現象に対するハンディを上手にサポートしてあげると良いのではないかと思います。認知症については、やはりとても失礼な意味での診断でもあるため、専門医が厳密に精査

 

 

をした上で下されるまで使用しない方が望ましいと思います。