ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。インスタグラムも始めてみました。https://www.instagram.com/goma.ushi/

神仏習合

 昨日の記事に引き続き、豊川稲荷へお邪魔すると、どうしてもこのお話を触れなければなりません。

 

 本日のタイトル、まさに神仏習合こそが日本の価値観ではないかと思うところがあります。ごまウシは、海外での生活歴もなく(確かに、ちらっと葉お邪魔したことはありましたが、本当にちらっとです)、純日本人と言うべき所があるため、ある意味、外国の方の価値観に対しては、閉鎖的なのかもしれませんが…実際はそうではないみたいですね。

 

 日本人の文化と言えるのは、外国の技術などは、ぐいぐいと食らいつくのですが、一方で、極めて排他的な感覚があったりします。この感覚はごまウシの感覚ではあるのですが、純日本人と自覚されている方々はいかがでしょうか?

 もちろん、私には、外国の方の友人も複数人いらっしゃいますので、気持ちでは分け隔てなく…のつもりではいるのですが…。

 

 日本の特性としては、新しいものについては、ぐいぐいと外部の情報を吸収して、合併し、融合してしまった上で、ある程度できあがったものや文化においては、極めて排他的になる傾向があると考えられます。

 例えば、スーパーに陳列されている、お肉などを買う時の考え方、いかがでしょうか?

 いけないなと思いつつ、私の感覚で言えば、あまり深く考えなければ、どこの国の産地であっても、ためらわずにお肉は買いますが、一方、おいしいお肉を食べたいとこだわった瞬間、「国産牛」という言葉を探し始めます。

 決して国産牛だけがおいしいわけではありません。おいしいお肉は世界中に存在するはずです。

 自動車についてもどうでしょうか?

 高級車においての外車というイメージはありますが、大衆車は日本車だと…不買運動などしているわけでもないのに、大衆車として、販売を売り込んだ韓国ヒュンダイ社が日本から撤退したという過去のお話は、まさにこの排他的思考が働いた部分があるように思われます。決してヒュンダイの自動車が劣っているとか、そういう基準で排他されたわけではないとごまウシは考えております。

 

 このように排他的ながら、一度受け入れると混ぜ込んでひとつの文化にしてしまうところが神仏習合という宗教観ではないでしょうか。

豊川稲荷鳥居

 本当は、鐘と鳥居という構図にしたかったのですが、残念ながら、それは実現せず。お寺の本堂と鳥居の構図になりました。

 

 神道の大元は、自然神をお祭りする日本の原始的な宗教観があったと言われています。しかしながら、決してアジア大陸との交流がなかったわけではないため、必ずしも完全なるオリジナルとは限りません。しかし、そこの仏教が入り、大きな影響を受けたのは間違いないことです。

 振動の自然神と、仏教の仏様で類似しているところを共有してしまうところなどは、まさに融合そのものと言えます。豊川稲荷で言えば、荼枳尼天宇迦之御魂大神は根本的にはルーツは異なるように感じるところではありますが、結果的には同じお稲荷さんになりました。宇迦之御魂大神は五穀豊穣をお祈りする神様としての存在ですが、荼枳尼天は力強く成就する力添えをする仏様と言えるところがあり、秦の始皇帝が強くあがめた仏様でもあります。

 

 資料を調べていくと混乱してしまうところもありますが、混ざり混ざり、完成したのが神仏習合的宗教観でしょうか。

 ごまウシは、この和洋折衷的思考は大好きなのですが、無意識のうちに、その折衷して完成したところで、そこから先を排他している可能性もあると思えてしまったりします。

 

 じゃんじゃん吸収していくことが大切と想い、排他をせずに、丸呑みではなく、しっかりと受け取りながら学んでいくことが大切かと想います。習合には、その学びの根本があるように思います。

 

 筋はぐちゃぐちゃですが、よく学び、よく食べ…ですね。