意見の対立や争いというのは、人類にとって避けられないことなのでしょうか?最近では色々な物騒な争いが多いように感じてしまっています。平和がいいと常々思うごまウシにとってみるとなんとなく悲しくなってしまうところがあります。
さて、争いや対立が発生するのは、個々の考えや理念、方向性が異なるから避けられないことと思います。ただ、双方ともこれが大げんかに発展するようなことを最初から求めているでしょうか?悪意があって、ケンカにつながるように策略的にすすめている場合もあるかもしれませんが、その前に悪意を芽生えさせる何かしらがあったことは確かでしょう。悪意が芽生えた時点でケンカは始まっていると言えましょう。
言い換えれば、対立や食い違いがあっても、最初から争いやケンカにつながると決まったわけではありません。また、争いやケンカになったとしても、それをいつまでも末永く続けたいと考えているわけではもちろんないでしょう。争いやケンカの場合は、どちらかが跪くまで続くことになるのですが、引き分けで円満解決する方法がないわけではないと思われます。その円満解決に向けての取り組みにはどのようなものがあるかということを考えてみました。
対立や口害が発生した場合、まず最初は、違っている部分の意見のぶつかり合いから始まります。「自分の考えが正しくて、相手の考えが正しくない」これがまず食い違いや対立のスタートになるでしょう。とても主観的な感情がうごめいていることは、分かりやすいと思います。これが客観的になるようにデータなどを示しながら議論するわけですが、そこでのデータのそろえ方や話の展開のさせ方は、相手が完全敗北することを目標にするような準備をしてしまいがちだと考えられます。封じ込められる側はたまったものではありません。そこで発生するのが主観のぶつかり合いで、時には理不尽化するかもしれません。これが争いやケンカに発展する火種になると言えます。その後はまさに泥試合ですね。
実際のところ、相手を完全敗北させる必要があるのでしょうか?また、自分の考えや意見を全て丸呑みさせる必要があるのでしょうか?
現実的にはそのような、一方的な動きというのは、言い解決方法でないことも多いと言えます。そのため、「折衷案」という言葉が出てくると考えてよいでしょう。この折衷案を作る作業が円滑に進めば、最後は、共同作業の結果の盛夏となるため、お互いが笑顔で握手ができるわけです。
この円満解決のためにはどうしたらよいでしょう?
これこそが、相手への敬意です。相手の意見をねじ伏せるためには、どうしても、相手が誤っていることを指摘して、謝らせると言った動きになってしまいます。しかし、相手は全部が全部間違っているのでしょうか?
違いますよね。相手の意見は、相手の方の考えや経験などから熟慮されて導き出されたもの。たとえ、それが容認できないものであっても、全くの好き放題で導き出された事柄ではないでしょう。だからこそ、そのプロセスを一部でもよいので認めてあげることが大切と言えます。
意見は違うけど、そこまでのいきさつに相手の方なりの苦労があるでしょうから、それに対して、認めてあげ敬意を表してあげることこそが、相手の対立意識を緩和させ、近寄る気持ちにさせてくれます。対立が深まれば深まるほど、相手への批判、軽蔑といった視線が増えてくるものです。
対立しているからこそ敬意が必要だと言えます。
色々な考え、色々な経験から導き出された考えがあります。全ての考えにその背景があり、そこに至るまでの苦労などがあります。理不尽な考えであっても、その理不尽さを導き出すだけの背景があるものです。
そこへの敬意が大切と言えます。敬意は、決して「受容」とは違い、過程の苦労を敬うことです。そのため、敬意を表したからと言って意見が合意するわけではないのですが、対立が攻撃につながるような形にならず、寄り添えるところを探すような動きになると言えます。
受容を前提としているわけではない、敬意を表することにより、世の中は平和につながるのではないかと思うところです。職場の対立もそうでしょう。敬意を表し、ともに向かっている道は同じ方向であったりする場合には、方向を確認し合い、対立意見であっても、方向を沿わせることにより合体させることも可能でしょう。
きれい事かもしれませんが、相手への敬意。これは大切なことですね。