ごまウシの頭の体操

認知症、緩和ケアなどが私の仕事の専らですが、これらに限らず、私が得た知見を広く情報発信したいと思います。

希死念慮とは何者?

 精神科の診療を行っていると、ほぼ必ずと言ってもいいほど遭遇するのが「死んでしまいたい」と言った発現です。いわゆる希死念慮というものです。突然このような言葉を聞いてしまうと、びっくりして動揺してしまうところがあります。死ぬというのは、簡単なお話ではありませんから、突然出て凝れば、びっくりするのも無理はありません。さらに、精神科の診療でなくても希死念慮についての訴えがあります。私の活動のもう一つの分野で歩かんわけあの領域では、良く耳にする訴えとしてあります。

 さて、この「死にたい」願望である希死念慮ですが、この希死念慮というものを掘り下げて分析をする事は普段の生活ではほとんどないかと思います。この希死念慮に対して冷静に対処するためにはその分析が必要となります。

 まず、「死」というものはどういう存在かというところから見てみます。「死」とは、生き物が必ず最後に体験する一生に1回だけの体験であり、その経験は命の終了を意味します。さらに、命が終了という事なので、生き物は本能的に死を回避する行動を生きていく中では種の保存とともに最大の優先課題となります。そのため、この「死」を希望し、求めることは、生物学的には、矛盾した願望という事になり、何かしら病的な心理状態および恣意的な心理状態が示されているわけです。さらに言えば、本来は願望するものではないため、願望するという事は非常識極まりない発想であるため、その「破天荒な思考が沸いてしまう」ほどの気分であるという事を示しているとも言えます。

 以上の考察から、希死念慮については、実は大きく2種類の意味がこめられていることが分かってきます。一つが、「病的に本気に死を望む」という状態です。そして、もう一つは、「死を望むほどの」深刻な気持ちであると言うことです。すなわち、希死念慮と言っても、一方で本気に望んでいて、一方では、望んでいないということを示しています。

 病的に死を望んでいる場合は、精神科医療では、医療保護入院(それでも避けられないことがありますが)など医療の保護を図り、病的な状態を治療し、実際の行動化を避けるための積極的な介入が必要となります。

 ところが、望んでいない場合は、積極的介入は過剰医療になり、場合によっては、「希死念慮」という言葉に無意味に振り回されてしまうことがあります。この望んでいない希死念慮に対して振り回されると、実際は、その訴えをしている方をさらに情緒不安定にしてしまうことがあります。

 「望んでいる希死念慮」は、対応はとにかく守って治療することですが、「望んでいない寄進念慮」は破天荒な発想をある意味「比喩」として解釈する必要があり、希死念慮と言う事柄に本当の意味があるわけではないことが専らとなります。この分析が日頃の希死念慮に対して向き合っている精神科医の仕事と言ってもよいと思います。

 さてこの「望んでいない希死念慮」の分析ですが言い換えると、破局的な状況を求めたくなるほど苦しいと言うことを示しているわけですが、この苦しみが何かという事を分析していく事が重要となります。苦しみの内容を分析していくことにより、対応方法は、大きく変わっていることとなります。

 例えば、がん緩和ケアにおいて「死にたい」と言われた場合、その苦しみは、「これから先の治療に対する恐怖」「現在の痛みなどの苦痛」「癌という診断を受けたショック」「病気が早期に見つけられなかったことに対する悲観」などなど多岐にわたりますが、この苦しみを発見し、その苦しみを理解し、共感するという事が、問題の解決に一気に進めることができます。一方で、精神科医療の中では、このような深刻な話題だけではなく、「苦しい」事柄に対する不適切な比喩をしていることによる振り回し言動である場合もあります。例えば、恋人とケンカをしたときに、「私の思いが分かってくれない」という苦しみから希死念慮を訴えたりすることもあります。このような場合には、苦しい事へのたとえとしてとても不適切なたとえを用いていることを厳しく諭し、気持ちの伝え方に対する指導を行う必要があったりすることもあります。希死念慮希死念慮でも重さはピンキリであることがこのように分かります。

 

 結論ですが、希死念慮というのは、病的な本気で考えている願望の場合と、破天荒な発想を「比喩」している場合とがあり、「比喩」の場合には、希死念慮の裏に隠れている思いについて分析をし、それを掘り起こして、そのことに対して適切な対応をする事が重要であると言えます。